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2008/05/22

[日誌]モディリアーニ、アントネッロ、金澤攝、トランソニック、ライヒ

ついこのあいだゴールデンウィークだったのに、時のたつのが早いこと。以下、箇条書きでその間のできごとを。

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◎5/4(日)
日経新聞でアルテスパブリッシングが紹介された。「気を吐く小出版社」と題して、先輩のミシマ社さんとならんで。大きなビジネス構造のなかで、採算とか利益とかから逆算して商品を企画するようなことは、やはりしたくない。それにはできるだけ会社はコンパクトにして、かかわる人間ひとりひとりの個性や思いが本にストレートに反映するような体制をとりつづける必要がある。それができるのかどうか、ずっと自信もなくやってきたけど、創業2年目をむかえ、これは「あり」なんじゃないかと少し思えるようになってきた。

◎5/8(水)
打ち合わせ前の時間を利用して、国立新美術館へ。モディリアーニ展。平日の午前中とて、それほどの人混みではない。モディリアーニの描く肖像画はみな類型的だ。一様になで肩で首が長く、瞳はアーモンド形に塗りつぶされて表情がない。それに対して、人物の皮膚を描く筆致のこまやかさはどうだろう。画家はモデルを「観て」はいない。「触って」いる。どう見えるかではなく、肌ざわりをそのまま描いた絵。暗闇のなかで、恋人と交歓する。あるいは視力を喪ったひとが、触感だけをたよりにひとと交流する。外形や表情といった「目に見えるもの」はそのとき余計なものとなる。モディリアーニは、視覚的に対象を特徴づける記号をひとつひとつ捨象してゆく。残るのは肌ざわり。それがそのひとの本質だ。これほどまでに類型化された、ある意味特徴のない肖像ばかりなのに、ひとりひとりの絵を見終わって次の絵に移ろうとすると、自分のなかで何かが抵抗する。「別れがたい」「名残惜しい」という感覚。すべての絵を見終わって部屋の外へ出ると、「たくさんのひとに逢った」という感慨が胸にのこっている。まわりには、もっとたくさんの人間が実際に歩いているのに、かれらはモディリアーニのモデルたちほどには実在感が感じられない。この画家が、ほんらいは彫刻家をめざしていた、というのは、だからとても納得できる。触覚のひとなのだ。

◎5/9(金)
成城大学の野田さんとパウル・クレーについての本の打ち合わせ。音楽書ではない。純粋な美術の本だ。昨年、この本も含め、博論の出版企画を2件、科研に申請して不採択となった。そのリベンジをかけ、2件ともそれぞれ別の財団に助成申請をおこなうことに。それぞれ1000部に満たない少部数の出版だけれど、こういう仕事をきちんと採算ベースに載せることもアルテスにとっては大切なことと思える。もちろん、企画に「読みたい」と思える魅力があるかどうかがいちばん大事。

夜はスズキ隊長と東京文化会館でアントネッロの第1回定期演奏会。なぜいま「第1回定期」なのだろう。テーマは「即興」。曲が地味なだけに、そのテーマをもっと前面に打ち出したほうが(集客上は)よかったのではないかとも思った。演奏は、圧倒的。濱田、西山、石川の3人のあいだに走る緊張感がたまらない。この演奏会については、きっと白石さんが報告してくださることと思う。

◎5/10(土)
夕方から渋谷へ。タワーレコードでピーター・バラカンさんのトークショー。満員のお客さんが身体を揺すって音楽とトークを聴いているのを確認してから、あとはスズキ隊長、フナヤマ隊員にまかせて新宿へ。西原稔さんと渡邊順生さんによるベートーヴェンをテーマにしたレクチャーコンサート。ベートーヴェンの音楽に流れ込んだいくつかの源流を探るという趣で、フォルテピアノやクラヴィコードなどを使って、当時の音を再現しながらの企画。C. P. E. バッハの先進性におどろいた。

◎5/14(水)
PTNA(ピティナ)にて金澤攝(かなざわ・おさむ)さんの公開録音会。ショパンの同時代のポーランド人作曲家エドゥアール・ヴォルフ(1816〜1880)のピアノ作品を集めて。ワルシャワに生まれ、現地の音楽院を出てからヴィーン、そしてパリで活躍した、ほとんどショパンと同じルートをたどったひとで、音楽も悪くいえば「ショパンの亜流」。曲のタイトルも《5つのマズルカ》《24のエテュード》などなどショパンへの意識がみえる。《マズルカ》は細かいパッセージにこだわってなんども繰り返す、自分の響きにみずから聴きいるような音楽。あまり他者性を感じない。対して《エテュード》は曲のスケールも大きく、難技巧で、聴くにも弾くにもエネルギーを要する。さまざまなテクニックやフレーズの繰り返し、というところは《マズルカ》と同じで、おそらくこの作曲家の美質をうまく表しているのだろう。エテュードという「外部」を設定しているために、前曲で顕著だった響きへの耽溺が抑制されている。金澤さんは19世紀の知られざる作曲家の作品の発掘をライフワークにしているひと。「ショパンとリストとは、同じ時代であっても両極端のように思えるが、そのあいだに無数の〈中間色〉があり、それを埋めていけば、19世紀の音楽の像がはっきりしてくるのではないか」という。これまでに100人を超える「知られざる作曲家」を研究してきたそうだ。

◎5/16(金)
浜野智さんと三橋圭介さんと新宿で。伝説の音楽雑誌『トランソニック』のアンソロジーをつくろうという企画。当時の執筆者にはすでに亡くなられた方も多く、許諾の連絡など難題は多いのだが、まとめて読みたいひとは多いだろう。すべて浜野さんにお任せすることになるが、どうまとまってくるか、たいへん楽しみ。

◎5/21(水)
スズキ隊長とオペラシティでスティーヴ・ライヒを聴く。日本初演の《ダニエル・ヴァリエーションズ》(2006)と《18人の音楽家のための音楽》(1974〜76)。《ダニエル〜》はパキスタンでイスラム過激派に殺害されたユダヤ系アメリカ人ジャーナリスト、ダニエル・パールの言葉と、旧約聖書の「ダニエル書」からの引用をテクストとした作品。作曲家の単一の視点のみでできている一元論的な作品だと感じた。それが、「復讐」を感じさせるテクストと結びつき、ミニマル・ミュージック特有の身体への直接作用で強化される。よく構成され、ところどころハッとする響きにも出会える音楽だと思う反面、聴きながら「勘弁してくれ」という思いがつのった。音楽は作曲家の意図によって、聴き手の身体や精神を一元化することもできる装置だ。でもそれは「善くない」音楽だと思う。それに対して《18人〜》のさわやかなこと! CDで聴くのと観るのとではおおちがい。小沼純一さんも書かれているようにここには「コミュニティ」の理想がある。作曲家は「場」を提供する。そこで複数の主体が自由に交歓する。多元的な音楽がそのつど新鮮に立ちあらわれる。いま、こういう音楽は書かれないのだろうか?[genki]

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