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2008/06/22

書斎のピアニスト──高橋悠治|2008/06/19

◆高橋悠治ピアノコンサート
 2008年6月19日(木)19:00 浜離宮朝日ホール

◎曲目
[第1部]
 バッハ/《平均律クラヴィーア曲集第1巻》より
      前奏曲とフーガ 変ホ短調
      前奏曲とフーガ ヘ短調
      前奏曲とフーガ ニ短調
 ブゾーニ/ソナティナ第2番(1912)
      《インディアン日記第1巻》(1915/全4曲)
      《子守歌》(1909)

[第2部]
 高橋悠治/《花筺二──高田和子を偲んで》(2008/新作初演)
 モンポウ/《沈黙の音楽第1〜4冊》より抜粋(1959〜67)
*モンポウ/《魂をうたう》(1951)
      《夢のたたかい》より〈きみの上には花ばかり〉(1942)
      《遊びうた》4,5,6(1943)
[アンコール]
*高橋悠治(詩:谷川俊太郎)/ゆめのよる
*バッハ/《マタイ受難曲》第2部よりアリア《憐れみたまえ、わが神よ》

◎演奏
 高橋悠治(ピアノ)
 波多野睦美(*/メゾ・ソプラノ)

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高橋悠治さんと会ってお話ししたのは、これまで一度きり。10年くらいまえ、ある書籍シリーズの編集委員に加わっていただきたくて、神保町のトロワバグでお会いした。その企画はけっきょく会社の理解をえられず、実現しなかったので「そのあと」がなかったのだが、強烈に印象にのこっているのは、その翌日からひどい頭痛で数日間寝込んだことである。

悠治さんとどんな話をしたか、具体的にはまるでおぼえていない。会うまえはなんとなく「怖いひと」という先入見があったが、逆に、押しつけがましいところのまったくない、静かなひとだった。ただ──これは印象として刷りこまれているので、じっさいに悠治さんがそういうことばを使ったかどうか定かではないのだが──「それで、あなたはどう思うの?」と問われ、そのあとにまったく“とりつくしまのない”沈黙があり、もとよりそれほど深い思想などもちあわせていないぼくは、たちまち底の浅さが割れてしまって、なにかとりつくろうように、必死で、意味のないことばを弄し、1時間ほどの面会ではあったが、ほとほと疲れてしまったのだ。悠治さんはぼくの底の浅い話を、非難するでもなく、いつものあの笑みを浮かべて静かに聞いておられたのであったが、ぼくはぼくで自分のキャパシティを超える大きな沈黙をかかえたような気がし、その結果数日寝込んでしまったような気がする。

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さて、悠治さんが70歳をむかえ、満を持して──と、いっていいのだろう──乗りだしたソロ・ツアー。山尾敦史さんは「高橋悠治さんはピアニストではない」と書かれているが、別にそれに反論するわけではなく、たぶん同じ印象をちがうことばを使って表現する、という意味で、ぼくはあえて「ピアニスト高橋悠治の真骨頂をみた」といっておきたい。しょせんはことばにできない印象=感覚=クオリアは、ぼくらのことばが「複数」であることによってのみ、その真実を担保される、と思うから。

その印象をひとことで言いあらわすとすれば、「書斎のピアニスト」ということばが適切だろうか。山尾さんも「まるで家で練習をしているように」と書かれているけれども、かれのピアニズムだけをみたときも、そこには「叩く」という動詞はふさわしくないし、かといって「奏でる」というのでもない、むしろ「読む」とか「(ページを)捲る」といった動詞がふさわしいように思えるのだ。けっして「豊か」でも「輝かしく」もない音色。むしろ「薄く」て「はっきりしなく」て「くすんで」いる。でもそれは、音色がよくないのではまったくなく、なにか掌(たなごころ)になじんだ書物のページの手ざわりのように、「薄く」て「ざらざら」して「くすんだ」色なのである。ぼくは、そういう感覚をとてもいとおしく思う。そして、その音色をもつということは、作家がひとつの文体をもつのと似て、ピアニストとして傑出した個性をもつことだと思う。

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プログラムの焦点は、カタルーニャの20世紀の作曲家フェデリコ・モンポウの音楽をメインにすえた後半だろうが、それまでにいたる前半のバッハ《平均律》、ブゾーニの数曲、後半1曲目の自作と、じつに周到に配置された構成だった。このあたりは「編集者・高橋悠治」の片鱗をみる思い。自然体で、その場の思いつきで曲を選んでいるようでありながら、自分のいいたいことを、どうすれば聴き手にもっともストレスなく伝えられるか、ということを考えぬいた「エンタテイン」のきわみ。

その「いいたいこと」──プログラム全体をつうじてのテーマは、おそらく「喪」「祈り」「弔い」といった死にかかわる思いであるだろう。端的には、盟友・高田和子の死を悼んでの新作《花筺(はながたみ)二》にそれは結晶しているが、それ以外の曲をながめても、短調の曲ばかりをえらんだ《平均律》、「母の棺を揺する」ことをうたったブゾーニの子守歌、中世スペインの修道僧サン・フアン・デラ・クルスの「夜」「沈黙の音楽」「永遠の泉の隠れ家」といったことばから生まれたモンポウの音楽、恋人のなきがらを前にうたう《きみの上には花ばかり》などなど。そこには齢70をむかえて、みずからの肉体の終焉への意識がしぜんに反映しているのだろうか。

ちょっとびっくりしたのは、アンコール2曲目の《憐れみたまえ、わが神よ》。8分の12拍子のいわゆる「道行のリズム」の一貫する、やはり「死」の匂いの色濃い音楽だが、アンコールの最後にはいかにも不釣り合いな重い音楽だった。ここに悠治さんは、どんな想いをこめていたのだろう。以下に歌詞をかかげておく。

 Erbarme dich
 Mein Gott, um meiner Zähren willen!
  Schaue hier,
  Herz und Auge weint vor dir
  Bitterlich.

 憐れみたまえ、わが神よ、
 滴り落つるわが涙のゆえに!
  こを見たまえ、
  心も目も汝の御前に
  激しく泣くなり。(杉山好訳)

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もうひとつ、照明のことを。全編をつうじて、客席照明が薄明るく、ステージにスポットは当たっているのだけれど、ほんの申し訳ていどで、ステージと客席の光の差があまりなかった。これもまた「書斎」をイメージさせる要因でもあったのだが、悠治さんはきっとすべてを聴衆にゆだね、「演奏の主役はあなたたちなのだ」ということを聴衆に伝えようとしていたのではないか。

ブゾーニの曲のところで、「ブゾーニにとって作曲とは“編曲”である」という話があって(この演奏会では曲ごとに悠治さんの、あのぼそぼそとはっきりしないことばでの解説があり、それもまた書斎的なイメージをつくっていたのだが)、「編曲=トランスクリプション=書かれたものの向こうに現れるもの」こそが、ブゾーニの求めたものだったという指摘があったが、つまり、この演奏会でいえば、ピアノの演奏はステージ上で完結するものではない、聴衆の裡で感じられ、考えられることではじめて完成するのだという主張が、照明の使い方からも感じとられた。

いっしょに行った友人(クラシックのコンサートをほとんど聴いたことがないといっていた)が、「全身の細胞が覚醒するような音楽だった」と昂奮していた。多くの音楽がなにか非日常的で圧倒的な経験を投げかけることにより、聴衆を「陶酔させる」ことを目的とし、聴き手もまたそれをもとめてコンサートに「あずかる」のがふつうだと思うのだけれど、この夜の体験は、まったく逆のものだった、ということだろう。そういえば、共演の波多野睦美さんのうたも、聴いているものの知的感性を刺激し、活性化させてくれるようなところがあって、聴き手はたぶんさまざまなことどもを感じ、考えながら、この「書斎」で時をすごすしあわせをかみしめていたのかもしれない。

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「それで、あなたはどう思うの?」──10年前と同じ問いかけがそこにはあった。こんどはしっかりと受け止められただろうか。[木村 元]

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