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2008/06/14

音楽非武装地帯 by onnyk[002]霊界の音楽

 前回は「聴こえない人による噪音」と「聴こえる人による無音」の話になってしまった。そこで今回は「存在しない人の音楽」を考えてみたい。

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 ローズマリー・ブラウン(1916-2001)という女性をご存知だろうか? 私はコリン・ウィルソンの著書『オカルト』(1970)で再認識したのだが、中村紘子の名エッセー『ピアニストという蛮族がいる』の中でもすでに紹介されていた。

 ローズマリーはいわば「音楽的霊媒」である。彼女が生まれ育ったのが英国というのはむべなるかなと言うべきだろう。英国は、いや正確を期して言うなら、大英帝国こそは古代から連綿と霊が跋扈する世界である。19世紀には、当時の科学者やら著名人が多数参加して心霊科学が確立し、いまだに降霊術も盛んだ。ウィリアム・ブレイク、W. B. イェイツという神秘主義者たち、そして妖精の写真の信憑性を保証したコナン・ドイル、破天荒な魔術師アリースター・クローリーといった名前を並べただけでも、その風土がわかるだろう。

 ところでローズマリーのことはネット上の百科事典にも出ているくらいだから、改めて紹介するのも気がひける。しかしウィルソンは、他の資料では記載されていない彼女の行状、言動を伝えているので、あえてその箇所だけ要約して引いてみたい。

1970年に、ロンドンの主婦であり霊媒でもあったローズマリー・ブラウンのレコードが発売された。彼女は60年代のあるとき、初老の音楽家の霊と交信するようになった。その紳士はフランツ・リストであることがわかった。彼女は少しピアノが弾けたので、リストの口述で小曲を書きとめた。リストはその後ベートーヴェン、ショパン、シューベルト、ブラームス、ドビュッシーなどを連れて来るようになり、さらに曲を記録した。これを知った人々が彼女を支援し、BBCが番組を製作した。彼女がいかさまだったかどうかは別に、その作品や演奏は一筋縄ではいかないものだったことは確かだ。なにしろ彼女は自分では弾けないような曲を書きとめていたのだから。それらはすべて別のピアニストの演奏によるレコードで聴くことができる。70年1月、ある音楽学者の霊がやってきてローズマリーに語らせた。「人類が、いかに科学的発展を遂げようと人間自身という問題を理解していない。人間は一時的な肉体に宿る不滅の魂を有している。今、この世を去った音楽家の霊たちは組織を作り、人類に教えを与えようとしている。それは人類が高次の意識状態へ移行する可能性であり、それを知れば現世における政策や問題が大きく改善することになる……」ローズマリーは家にレコードプレーヤーを持っていなかったということで、彼女への信頼度は高まったのだが、私[ウィルソン]は疑問を持っている。それはなぜ、中途半端な小曲ではなく大傑作を、天才を真に感じさせるような交響曲を与えてくれないのかということだ。しかし彼女は今、ベートーヴェンの第10交響曲を記録している最中だというので、それが世に出れば事態は変わるのだろうか。[onnyk追記:これは1976年に、作曲家イアン・パロットがオーケストレーションして発表した。つまり彼女は単純な骨格しか書きとめることができなかったということか]

 残念ながら、私は彼女の「曲」も「演奏」も聴いたことがない。そのレベルについては専門家もさまざまな見解に分かれるところだそうだ。まあ、それはどうでもいい。つまり、私の関心は「人はなぜ、いかに、音楽をやろうとするのか。音楽行為の衝動、源泉はいかなるものか」ということである。しかし、ローズマリーのような例は現象として面白いので、もうしばらく愚考を巡らせてみたい。

 霊がやってきて音楽を口伝えする。これは、もしかして一般的に言う「幻聴」であり、「思考吹入」ではないのか。中村紘子が彼女の家を訪れたとき、いきなり「ショパンに会わなかった? ついさっきまでそこに居たのに」とやられたそうである。これはまた妄想と言えそうな……。こう揃ってくるといわゆる統合失調みたいな感じがするのだが、ローズマリーをそう診断するいわれはないだろう。

 昔からジャンルを問わず芸術家は事あるごとに「神がやってきて私にそうさせた」と言ってきたではないか。しかし中でも音楽家連中はことさらにそれを言い募ってきたのであり、証言には事欠かない。あのストラヴィンスキーやエリオット・カーターでさえそうだったし、メシアンは言うにおよばず、それ以外にもあれこれの例証をジョスリン・ゴドウィンが書いている(斎藤英一訳『星界の音楽』第II部第4章、工作舎)。

 ジャズやロックではそういう発言はまったく当たり前のようにみなされている。これは、アドリブ、即興演奏がそのジャンルにおいて、重要であることと大いに関係する。その技量をいかんなく発揮する場合、自らトランス状態に入ってしまうことも「技法のひとつ」であると言えるのだ。もちろん、すべての即興演奏家がそうではないことも付け足してはおきたいが。

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 「私の意識ではない何かがやってくる」というのは、日本では最近「電波系」と言われたものだ。電波という物理的認識がなかった時代は、神、天使、霊、悪魔(あるいは動物? 宇宙人?)がそう命じていたし、頭の中に彼らが入ってくるのに逆らえなかった。こうした「霊的現象」(と、いっちゃうと語弊があるのはわかってるが)は、ある意味では宗教的基盤にさえなっている。これがなければ人類に宗教はなかったとさえ言えるかもしれない。つまりシャーマニズムである。トランス状態になった(させられた)呪師、巫女、子供が神を降ろし、御宣託を下す。それが集団の行動や環境を支配する。シャーマニズムと思考吹入の違いはなにか。大雑把に言えば、前者が意図して目的をもってトランスに入り、また、それは集団の維持に必須である。しかも移行状態の間彼は自らを認識できない。それに対し、後者は「他者の意識」がいつやってくるかわからない。そして、その他者と自分が葛藤しながら自ら欲せざる行動を、自意識を保持したままで遂行してしまう。もっとも、葛藤のレベルはさまざまだろう。本人が他者に説得されてしまえば両者は協力的に、増幅した力を発揮するだろう。これを自己調和的な状態といっておく。

 預言者の時代から葛藤はあった。モーセは「なぜ、神が雄弁な兄アロンではなく訥弁な自分を選んだのか」といぶかる。しかしいったん彼が指導者の道を歩み始めれば、自意識は合致なのかふっ飛んだのか融合したのか、紅海の水さえ退けてしまうのだ。

 田舎の郵便配達夫シュヴァルは、毎日の配達で空になる鞄に拾った石を詰めて持ち帰り、こつこつと独力で、巨大かつ異様な宮殿を作り上げた。精神科医ヴィルヘルム・ライヒはある日、晴れた空を見上げていて、突然に生命と性感の素となる粒子を発見する。さらに彼はそれを用いて雨を降らす装置を発明し、癌の治療法も開発してしまう(もっともそれには米政府の認可が下りなかったのだが)。

 何が彼をそうさせるのか。他人にはわからない。直観、霊感は、それを待っているか否かに関わらず突然にやってくる。「インスピレーション」という語は、何かが吹き込まれる様を現している。何が狂気と正気を分かつのだろう。それは紙一重というか本質的には同じ状態の表裏であろう。

 脳は、タンパク質でできたひじょうに微細な神経回路網の集合体である。ある人は「この宇宙のなかで最も複雑なシステムは、この宇宙自体と人間の脳である」と言った。脳細胞自体は約一千億あるが、日々死んでいくのは一万個とも言われる。だからといって我々が毎日馬鹿になっていくわけではない。問題は細胞の数ではないのだ。脳を構成する神経細胞は周囲の多数の細胞と樹状突起という部分において、互いに接触を持つ。その接合をシナプスと呼ぶ。そしてシナプスは神経回路網を形成する。シナプスの数は脳細胞の階乗倍になる。シナプスによる回路網は日々更新され我々の記憶、学習、思考、感情といったあらゆる心的機能の源となる。だから一部が壊されても、それを常に重複したネットワークがカバーしてくれる。そのように複雑な構造の中で「直観」はいかにして起こるのか。私の友人のひとりは「それは人体を毎日通過する宇宙線が、あたかもゲル状と言える脳内の分子を、その通過軌跡のとおりにイオン化し、そこが新たな伝達回路を作るのさ」とうそぶいた。これはもしかしたら真理かもしれない(なにしろこの友人、今から30年前にテロメアの存在と機能を予言していたくらいだし)。

 天地開闢以来、この宇宙のすべての出来事を記録するというアーカシック・レコード。ルドルフ・シュタイナーはそれに直接アクセスして、驚くべき人類史を講演した。シュタイナー教育の開祖やゲーテ研究の泰斗としての彼を知る人々も、荒唐無稽とさえ言える彼の神秘主義的宇宙観は敬遠しているようだ。しかし我々は日々記憶を新たにし、忘れたつもりでいた事どもでさえ催眠術で詳細まで思い出す。記憶は遡り、幼少期から乳児期まで、さらには胎内から生前の記憶まで。この我々の記憶を支えているのは脳であろう。これこそ、個人的アーカシック・レコードと言えるのではないだろうか。あるいはそこまで言えないとしても、アーカシック・レコードのデータバンクにアクセスするための端末機としての脳みそ。何度つかっても費用はかかりません(蛇足ながら疑問──アーカシック・レコードを仏教の阿羅耶識に匹敵するものとみなす考えがあるようだが、どうなんでしょうね)。

 思うに、霊感を受けた人が狂気か、正気か、はたまた芸術家か判断されるのは、きわめて相対的な問題である。要は自己調和的であるか、周囲の方々に迷惑をおかけしないか、公共の秩序に反しないかといったことで決ってしまう。

 12世紀、ビンゲンの修道女で、幼少期から多様な天界のヴィジョンを見つづけたヒルデガルトは、自分の見たものが悪魔からのまやかしか、神からの賜かわからず40歳を過ぎるまでそれを隠していた。彼女はその判断をローマに託し、遂に聖女として認知された。彼女はその幻視の数々をタピスリに残し、自ら創始した修道会のための聖歌を多数作詞作曲した。彼女の見た驚くべきヴィジョンを素直に受け取るなら、あと3世紀後ならまっすぐ火刑台へ送られ焚刑に処せられたのではないかとさえ思ってしまう。

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 ところでこのブログの運営者である木村元さんとやりとりしているうちにこんなメールが彼から来て、何か動かされるものがあった。

[前のメールに]「メディア論」の話題がでていたので「メディア」という表現を使いましたが、onnykさんのおっしゃる「場」ということでいえば、むしろ「共振」「共鳴」という表現のほうが本質的ではないかとも思います。つまり音楽は遍在しているのだが、ある特定の状態にある人間の身体や精神(便宜上2つに分けましたが、デカルト的な二元論に与するものではなく、この2つはほんらい分かちがたいものだと思っています)がそれに共振し、onnykさんの表現を使わせていただければ、具体的な「音楽構造」として現出する、ということです。イギリスのリュート奏者のアントニー・ルーリーは、その「場」のことを「テメノス」という言葉で表現しています(『内なるオルフェウスの歌』有村祐輔訳、音楽之友社)。響きの最悪な演奏会場でも、そのテメノスが現出することがあり、演奏者と聴衆の身体が共鳴したときに、現実の音響とはまったく異なった次元で、素晴らしい音楽が生まれることがある、という考えです。

 ここで書かれたメディアはもちろん、現代の情報産業が仕切る大量多様なツールとそのネットのことではあるが、メディアには「霊媒」の意もなかったか。ローズマリー・ブラウンが実際に霊媒であったというのは、いわば彼女は霊界音楽集団からのメッセンジャーという意味でのメディアであるとも言える。

 霊は自ら語らず、霊媒を通じて語る。しかし、それが真に霊的存在の意思なのか、それとも霊媒に託された、集団的な欲望の投影なのかを問うのはあまり意味がない。コリン・ウィルソンは『オカルト』の中で、物理学的には解明できそうにない幾多の例を集め、その本質を人間の未知の機能による可能性として残している。それが書かれた1970年頃には、十分楽観的な未来の科学が開けていたというわけだ。しかし、情況は激変した、いやしていないのかもしれない。少なくとも霊について解明は進んでいないし(というか私はそう思うが)、相変わらず常識を超えるような現象に出合うこともあり、それは詐欺まがいの商法とテレビ番組のネタとしては大いに機能している。

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 通常の知覚範囲内の出来事を「世界」として再構成し、それを「現実」として生活する我々は、実は眠っているのだという言い方もある。これは20世紀の精神的巨人のひとり、G. I. グルジェフの考えだ。

 グルジェフもまた音楽のパワーにはめっぽう力を入れていた。彼自身は記譜できなかったが、若い頃からの遍歴において出会ったさまざまな集団、宗派の音楽をことごとく細部まで記憶しており、それを口述で弟子のピアニスト、T. ハルトマンに書きとめさせた。また彼は七音音階、その全音と半音の位置まで含めて、それが宇宙の進化とヒエラルヒーを象徴していると弟子に語っている(前出のJ. ゴドウィンの著書より)。

 グルジェフの音楽はロバート・フリップ(キング・クリムゾン!)のプロデュースしたものを含め、いろいろ録音されていてけっこう入手できる(珍しいところでは、1980年代第1次インディーズ・ブームの頃、東京のマイナー・レーベル「ピナコテカ」から出た伝説的バンド「タコ」のファーストにも収録されている)

 彼の音楽は、ナイーヴというかシンプルなものであるが、キース・ジャレットが1980年にピアノ・ソロで録音したCDは、一躍グルジェフの名を広めたのではないだろうか。キースの初期のピアノ・ソロはどこか旋法音楽的であった。それが新鮮に響き、特に日本では70年代初頭に馬鹿受けしたものだった。ブレイクした頃の彼の精神的傾向でもあった少し古代的、少し非西欧的というところが、グルジェフ音楽への共鳴になって戻ってきたのかもしれない。

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 話がそれてしまった。「ほとんどの人は眠っている」。この一見魅力的とも恐るべきとも言える見解は、今やグルジェフ一派の専売特許ではない。映画『マトリックス』はまさしく、そのような世界を構想した表現だし、これ前後にも多数の映画が、そういう設定を用いてきた。クローネンバーグの『イグジステンズ』しかり、また押井守は「攻殻機動隊」シリーズ以降、『アヴァロン』など近年とくにそういう傾向を強めている。

 契機はウィリアム・ギブスンのSF小説『ニューロマンサー』(1986)にあった。コンピュータ・ネット内のヴァーチャルな世界に没入して生存を賭けるサイバー・パンクと呼ばれる一群の抗争である。今や「セカンド・ライフ」なる仮想社会に皆こぞって参加する時代である。あるいは社会問題になりつつあるオンライン・ゲームのプレイヤーたち。

 小説が出てからすでに20年以上経過しているんだから、これもSFの特徴のひとつたる予言効果はあったというべきか。まあ私は、体が動かなくなってどうにもならなくなってしまわないかぎり参入しないと思うけど。

 話はそれていない。つまりもし仮想世界のなかに没入した貴方が、そこでこの現実を思いだすような瞬間があれば、まるでそれは我々が霊の世界を垣間みるようなものではないだろうか?

 もし映画『マトリックス』のように生まれた瞬間から、その精神の進化を仮想世界に繋がれてしまったら、彼にとっての〈現実〉はどちらにあるだろうか。マトリックスの意味のひとつに「子宮」がある。映画の人類たちは死ぬまで人工の子宮の中に飼われている。しかしまた「社会は第二の子宮である」という言い方はすでに常識ではなかったか。あるいは荘子の「胡蝶の夢」を想起してもよい。つまりこの主題は昔からあったというわけだ。

 私たちは生まれながらに地球上というだけでなく、「この次元」に閉じ込められている。あたかも魚が一生を水中で過ごすように。我々はようやく、重力のない(正確には微小重力の)世界での生存の可能性を見いだした。過去の聖人、精神的巨人たちは「この次元」からの脱出を示唆してきた。しかし、それはこの肉体のままでは叶わないことも同時に示している。まさしくエクスタシー=脱我状態こそがその方途である。このタンパク質の肉体は低次の身体であり、オーラの輝くアストラル体によるトリップ、星界への上昇はこの肉体を脱ぎ捨てよというのである。そのような次元に至れば、我々が知りうる物理学的限界は超越され、時間にも空間にも、因果律にさえ制約は受けない。その次元では霊的存在となった大音楽家たちが連帯して低次の人間を善導しようと努力しているのである……ということになるのだろうか? もっとも、ローズマリー女史没後、連絡は途絶えてしまったようだが。

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 考えてみればテレビも映画も、あるいは絵画や小説や演劇にしても、仮想世界に「私」を投影して〈現実〉と少しだけ切り離してみる仕掛けだ。これが芸術のひとつの効果であり機能でもあった。それによって欲望は形象を与えられ昇華する。しかしこうした芸術は、まだメディアではなかった。それは振り返るだけで接続を絶つことができた。演技者、俳優は舞台の上の世界に〈現実〉があるとは思わないだろう。映画はあくまで幻影を創造してきた。だからこそ我々は、その芸術を物象化し、商品化し、メディア化してきた。

 このIT化社会においてメディアとマトリックスはすでに同義だ。もし木村氏の言うように「音楽は遍在しているのだが、ある特定の状態にある人間の身体や精神がそれに共振し、具体的な『音楽構造』として現出する」ならば、我々の時代の、いや我々の次元の「音楽」は常にメディア=マトリックスの中に漂っており、それを捕まえるために我々は楽器を用い、声を出してみるのかもしれない。

 音楽補足装置としての「楽器」。これは私にとってひじょうに魅力的な考えだ。あたかもオジブワ・インディアンの「ドリーム・キャッチャー」のように。また歌は「普遍的音楽」に呼びかけて共鳴し、それを呼び戻すためのテクストなのかもしれない。別次元に働きかけるためのテクスト、それを「呪文」とも「祝詞」ともいう。力あるコトバと道具を自在に操って次元の階梯を越えることを魔術という。そしてご存知のとおり、musicとmagicは語源において近い。

 音楽は形象がない。それゆえ直接、感情と身体に作用してくる魔術なのではないか。霊媒を通じて霊が語ることと、メディアの中に浮かぶ〈音楽の原基〉に何か(それを精神といっても意識といってもいいが)を共振させてサウンドとして現出させること。何も霊媒や音楽家が特別な存在なのではない。ただ、彼らは知覚される以上の、あるいはその彼方に、裏側にある次元に気付いているだけだ。音楽を聴くだけのものとせず、「別の次元から投影された写像」として補足すること。これもまた私の畏友のひとりが語った言葉である。(了)


[蛇足]
 私はよく勝手な想像をする。もし私がローズマリーのような霊媒ならフランク・ザッパ、ジミ・ヘンドリックス、エリック・ドルフィーあたりを共演させたい……。ベースにはスコット・ラファロ、ドラムにはトニー・ウィリアムスか、キース・ムーンを迎えたい。そしてこのような組み合わせはもう十分技術的には可能だろう。サザンの桑田がジャイアント馬場と戦ってもメディアの世界では違和感などないのだし。

 ローズマリーにとって音楽とはいわゆる西欧クラシックであり、音楽家とは大時代の作曲家だけだった。ある人にとっての音楽とは、その人の経験の中で領域化されたものにすぎない。

 島田紳助は「歌がないとどんな音楽も聴く意味がない」という。これは私とまるで逆の考えだ。私にとって音楽は歌などあってもなくてもいいのである。紳助にとって音楽はコトバによるメッセージに旋律が付随したものにすぎない。しかしそれでも言葉と旋律の融合は、その両者を止揚したもの以上の精神的な機能を発揮する「魔術」である。そういう意味で私は紳助よりも魔術から遠く、それだけ不幸であるように思うのである。[onnyk/7, jun. 2008]

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コメント

Hi Kinno-san, Reading your essay is rather difficult to me – too many quotations, many reference of people so on. Once I got used reading Western articles it’s quite different from their ‘logical’ way of writing. Anyhow I am not criticizing or being cynical though. Btw I would like to hear your point of view about chaos (or ‘lateral’) and inspirations.

投稿: izumi | 2009/01/11 15:47

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