音楽非武装地帯 by onnyk[003]「祭り」と音のフェロモン
私は仕事で月に一度、秋田県の角館にいく。そんなことがもう20年以上も続いている。そこは山あいの静かな、旧佐竹藩の城下町だ。行き初めの頃はそれほど思わなかったのだが、最近になって角館は本当にいい町だと感ずるようになった(註1)。
東京駅から東北新幹線「こまち」号に乗れば2時間半で盛岡。そこから「こまち」は秋田新幹線となって田沢湖線を走る。40分ちょっとで角館に着いてしまうのだが、沿線の風景は四季折々の変化に富み、楽しいものだ。盛岡と角館の間は、仙岩峠というかつては難所とされた山越えがある。列車は多くのトンネルを抜けつつ、谷底の渓流ぞいを走る。車窓はどちら側を見ても急斜面が立ち上がり、空は尾根の間に見えるだけなのだが、山の眺めには飽きることがない。
春は残雪の山肌に芽吹く木々の柔らかな印象、夏には広葉樹、針葉樹の混淆した、西日本には見られないような淡い爽やかな緑の山肌、秋は見事な紅葉のカーテン、冬こそ最も美しい一面純白の世界だが、ときおりカモシカなどの足跡を見かけることがある。
峠を越えること、それは異界へ入るようなイメージとして昔からよく描かれてきたが、たしかに山あいを抜けて、線路が田畑に囲まれた平地に出ると少しだけ別世界に来た気持ちになる。
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私にとって、角館は遠くないのだが、決して近いとも言いきれない、異空間としてある。そのイメージを形成する理由のひとつが、地元では「お祭り」と呼び慣わされている、町をあげての祭礼である。聴くところでは正月や盆にも帰らない人でさえ、この「お祭り」には帰省するというほど、角館人の心の拠り所になっている。町はこの祭礼の期間中、異様な活況を呈することになる。
9月の7日から9日にかけて行われる、この「お祭り」は重要無形民俗文化財にも指定されている。その特徴は薬師堂、つまり仏教由来の寺院と、神明社つまり神道由来の二つの祭礼が合体した形で行われることで、それだけでも興味深い。しかし江戸時代以前はどうだったのか。神仏習合は当然のこととしてあっただろうから、角館の例は珍しくないのかもしれない。
町の住人にとって大事なのは曳山(ひきやま)である(山車ということもあるようだが、以下「やま」と記す)。かつては担ぐものであったというが、現在は4輪の人力で牽引する形となっている。その大きさからすれば、2つの「やま」がすれ違うことはかなり困難である。長さは7、8メートルはあろうか。台車の上には前後に向いて人形で歴史的事件や歌舞伎の名場面が再現されている。また小さな舞台があり、その上で女性が踊りを披露することもできる。高さは3、4メートルもあり、「やま」のてっぺんには人員が配置され、トンボのような道具で電線を持ち上げてくぐるようにしている。そして下部には鉦、太鼓、笛、三味線などのお囃子集団が隠れるように収納されている。「やま」の両側には、牽引するための太いロープと横に突き出した棒があり、それを数十人の男性たちが直接引くことで移動が可能になる。直線的な移動はそれでもよいが、街角で方向転換する際は、後ろの方に伸びた太い木材を利用して回転をする。これは、かなり技術を要する。「やま」は丁名を書いたたくさんの提灯で周囲を飾っている。また「やま」を引く集団も同じ提灯を掲げて歩くのである。
各「やま」は角館町内の小単位である「丁」ごとに所有され、その丁内の人々によって引き回される。その集団は「若い衆」(発音は「ワゲシュ」である)と呼ばれるが、小学生から壮年の者まで、小さい丁内では30〜40名、大きいところでは100名ほどになり、小学生までは女子も参加している。
「やま」の基本行動は、神社と薬師様に詣で(上り山)、町内に戻り報告する(下り山)ことにある。毎年18台の「やま」が町内を運行するのだが、それぞれの「やま」には独自の神様が宿るともいう。だから各丁内とも自らの「やま」を神聖視する。それが問題である。決して広くない角館町内の路上で、この「やま」同士が対面することになる。そこからが見物である。
お互いが優先的な通行権を主張しあうから、膠着状態に陥る。そして交渉決裂すると、互いの「やま」をぶつけあって実力行使に臨むのである。交渉は2時間以上に及ぶこともあるという。そして優先的通行権は結局、双方とも譲らない。お決まりのパターンではあるが、「仕切り」のように形式を重んじて、実力行使の前には礼儀が必要なのだ。それがまた否応なく誰もが予期、いや期待する激突への前奏曲となる。
交渉決裂が決定的になった瞬間、双方とも伝令が走り、ロープを握った若者たちがだーっと相手方の「やま」の方向へ走ってゆく。互いに相手の「やま」の後方へ向けてロープを引くことで、「やま」同士をぶつけることになるからだ。さらに各々の「やま」の側面には「ワゲシュ」が取り付いて直接「やま」を押す。「やまぶつけ」に参加できる「ワゲシュ」は中学生以上だが、「やま」を直接押せるのは高校生以上と決まっている。
そして囃子が急テンポに変わった瞬間、二つの「やま」は、先ほどまで交渉役が座り込んでいた中間地点に向けてぐんぐん接近し、ついに激突する。その瞬間、怒号と歓声とともに腹の底に届く鈍い大音が響きわたる。
この「やまぶつけ」が凄い迫力なのだ。ゆうに10トンはあろうかという構造物を、人力だけで10メートルくらいの間隔から、かなりの勢いで正面衝突させる。最近、祇園祭の山鉾の重量を計測したらしいが、それに匹敵するだろう。衝突した瞬間、「やま」の前方部が持ち上がる。どんどんせり上がって最高では互いの角度が60度くらいになるまでいくから、3メートルくらい持ち上がるのである。実は双方が均等に持ち上がるのではなく、どっちかがのしかかってしまうので「人」の字みたいになる。
囃子手はいやがおうでもこの緊張感を盛り上げる早い拍子で神楽を奏する。周囲の見物人も巻き添えになるほど、双方の引き手は殺気だっている。「やま」の上に立つ若者は提灯を掬い挙げるように振り回し、笛(普通のホイッスルではあるが)を吹き鳴らして引き手の調子を合わせるよう指示する。激突中の「やま」の上に立てるこの「先導」になれるのは大変な名誉であることは間違いない。
この「がっぷり四つ」状態はしばらく続く。そしてまた頃合いを見て、交渉役による話し合いがあり、ついには「やま」が引き離される。そしてまたそれぞれの道へと「やま」は進んでいく。
かつてはぶつけたときの衝撃で死傷者が出たりするのは当たり前と言われ、角館に赴任してきた警察署長の最大の悩みはいかにして「お祭り」での怪我人を減らすかにあったというほどである。現在では、重傷の怪我人が出た「やま」は運行が中止され「死にやま」となる。「死にやま」はすべての提灯を消し、文字どおり暗くなって街路の片隅にやられる。
なんだか、こう書いてくると、礼儀に始まり礼儀で終わる、日本の格闘技の世界である。いちばん似ているのは相撲かもしれない。ショッキリでも八百長でもない、ガチンコの「取り組み」は夜を徹し、3日目の空が白み始めるまで行われる。
面白いのは、今町内のどこで「ぶつかっているか」を示す掲示板があることだ。「交渉中」とか「今ぶつかってる」とかがすぐ分かる仕組みだ。かつては、どこの道にどこの「やま」が来たかを偵察する部隊があり、その伝令も必要なのだが、それは年少者たちが担当していた。今は携帯電話が普及したので、それで連絡をとることが普通になってしまった。
また、毎年のことなので「今年はあそこの『やま』にぶつけてやろう」とか、リベンジ狙いの進路を取る丁もある。また毎年のようにぶつかってしまうライバルもあり、そういう歴史的情況もまた楽しみのひとつなのだ。
また「お祭り」が近付くと丁内では頻繁に会議(と飲み会)がもたれ、いざ当日となれば家に3日帰らず「やま」と行動を共にする猛者も少なくない。となるとその飲食を補給する必要もあるわけで、各丁内では「やま」の後ろから小型トラックなどの補給部隊が付いていく(「お祭り」中は町内はほとんど車両通行禁止)。各家庭では、大抵の家から最低1人は「やま」に付いていく男衆がある。しかし祖父、父、息子たち、叔父などまで、総出の家もある。学校も職場も、ほぼ公休状態である。町全体が「お祭り」を中心に動く3日間なのだからしょうがない。
では女衆はどうしているのかというと、決して家に籠ってなどいない。髪を結い上げ、派手な鉢巻きできりっと締め、気合いの入った化粧をし、丁名の入った半纏をまとい、腹掛け股引の、それは粋な姿になる。イナセと言いたいところだが、これは男性への形容で、女性にはオキャンと言うらしい(そうですね、杉浦日向子さん?)。しかし、ここでは女性が男装に近い装束となり、いわば中性的な魅力を引きだしているのだからイナセと言ってもいいのかもしれない。
このイナセな若い母親などは、幼児にも祭りの衣装を着せ、抱いて「やま」に付いていくし、小学生くらいまでは女子も同じように「やま」へ付いて歩く。しだいに踊り手や囃子手などに育っていく子もあるが、これはまた厳しい修行が必要であることは言うまでもない。
しかし、そういう専門的な役職ではない女性たちでも、やはりイナセ/オキャンな装束で3日間、角館というハレの宇宙を闊歩するのである。
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このハレの宇宙は、各地の祭りと同じく、一種の歌垣(カガヒ)の様相も呈している。つまり男女が見そめあう場としての機能、いかに自らの存在を誇示できるかの絶好の機会でもあるのだ。
私は、この角館の「お祭り」に特異なサウンドスケープを聴いた。
祭りの中で最初に印象に残ったサウンド、それは祭り衆の足音だった。とにかく異様に響くのだ。ただ歩くだけでもガチャリ、ガチャリと、決して重い音ではないのだが、鋪装道路に金属的に響く。小走りになっている者はジャッ、ジャッ、ジャッと素早く鳴らして去っていく。なぜこんなに音がするのだろうと思っていたら、履物屋の店先でそれが分かった。「お祭り」用の雪駄を売っているのだが、その足裏を見ると鋲が打ってある。これがあの響きの理由だった。
しかしなぜ、鋲を打つのか。スパイクとして、踏んばる際に抵抗してくれるのだろうか。いや、実は「やま」の引き手はこのスパイク雪駄は履いていない。舗装道路の上ではかえって滑ってしまうからだ。かつて何度か「やま」の車輪で足の指を潰したなどという事故があり、足元とくに履物には厳重な注意がされている。とくに引き手は脱げやすく、滑りやすい雪駄など履くことはない。このスパイク雪駄を履くのは「ワゲシュ」ではない町衆であり、女性たちも好んでこれを履く(正確に言えば雪駄の裏の金属は鋲ではない。もっと平坦な金属片である。しかしこの部品を何と呼ぶのか知らないので以下「鋲付き雪駄」と表記する)。
この町中に響き渡るサウンドは、まるで軍靴の如くである。しかし私は、軍靴の揃った足並みではなく、ハイヒールの硬質な靴音を思いだした(註2)。
というのも「鋲付き雪駄」は、ハイヒールと同じく都市の靴である。ビル街や硬質の廊下にカツカツと軽やかに高く響くヒールのサウンドは、そこに踵を高くした女性が居ることを誇示している(未舗装の街路や木製の床には「鋲付き雪駄」もハイヒールも響かない)。それは男性の耳に音で伝わるフェロモンである。
男性にとってピンヒールは一種のフェティッシュである。それ以前に女性の靴はフェティッシュとして代表的なものだった。
アンドレ・ブルトンとも交流のあった画家ピエール・モリニエは、典型的な「靴」と「足/脚」の愛好家であった。靴や脚をモチーフにして描いただけでなく、彼自身が黒いストッキングを着用し、好みのピンヒールを履いて自分の脚だけを撮影したフィルムも残している。彼の性的な習癖についてはここでは語らないが、その「倒錯ぶり」は徹底している(ほんとにすごい。娘がいたと聞いて驚いた)。そのせいで、そのフェティッシュがかえってすべての男性の欲望に通底しているとさえ思えるほどである。
あるいはまた、20世紀を代表するアーティストのひとり、アンディ・ウォーホルがそのキャリアの初期には靴のデザインや宣伝をしていたいことも思い出そう。彼の作品にはいつも性と死のイメージがまとわりついていた。
靴はその堅さによって一種の鎧であり、その中に柔らかな肉を内包する甲殻類のようなイメージを持つ。またそれは革製品であり、匂いを吸着することでさらに欲望を刺激する。そして靴全体が足/脚のイメージの暗喩となり、「足/脚だけの存在」が不可能であるがゆえに絶対の夢幻的な存在となる。
ところでアフガンではふたたびイスラム教原理主義組織「タリバーン」の活動が活発化している。タリバーンは、女性に対して厳しい掟を定めた。外出時、ブルカ(チャドル)を着用することはもちろん、化粧も禁止した。女性らしさを外部に誇示するものはすべて禁止することが、「女性を守る、というイスラムの教えに適う」と言うべきか、それとも「財産であり男性の所有物である女を他者の目に晒さない」という前近代の論理なのか、それはここでは問わない。
私が注目したいのは、タリバーンの禁止事項にハイヒールを履くことがあった点である。しかし女性がハイヒールを履くどころか、街頭を歩く機会さえそうないような社会で、なぜそこまで禁止しなければならなかったのか。靴音をたてて歩くことさえも禁止の対象となったのはなぜか。実はタリバーン兵士もハイヒールを買って帰ることもあったというのだが、家の中で履くだけならむしろ推奨するのだろうか。
音楽の快楽を惑溺の対象として罪悪視するイスラム教。しかしそれはアラブ音楽の魅惑の裏返しだ。その意味からしても、東西の交差点アフガンの音楽は豊穣であり、それゆえに現地人の聴覚が敏感であることとも関連しないだろうか。
「足/脚」がなぜ、性的な嗜好のアイコンとなりうるのかについては、すでにいくつかの考察がある。足そして脚は大地に近い存在であり、その近傍に生殖器があることによって、生産の象徴となる。したがって、足/脚で大地を搗く、それは歩くというよりは儀礼的な、舞踏的な行為として、生産・生殖への誘いとなるのである。アイヌの儀礼「タプカル」は、相撲の「四股」と同じような行為であり、大地の力を我がものにすると同時に、大地との繋がりを確認する儀礼である。これは反閇(へんばい)や禹歩(うほ)のような魔術的な歩行、あるいは芸能化して歌舞伎の六方などとも関連するだろうか(日本の諸芸能が「田楽」から始まったことを考えれば、その豊穣祈願的要素が形を変えて出現したとしてもおかしくはない)。
ところで足音が音響的作品として結実した希有な例を2つ紹介しておこう。『BRADFORD REDLIGHT DISTRICT』という名で知られる一部で有名なLPがある。1980年に製作され、英国のブラッドフォードという町の「売春地帯」を歩き回る音が延々と録音されている。ジャリッジャリッと踏みしめる足音がずっと続き、周囲の何やら雑然とした歓楽街の音がわずかに聴こえるのみ。このサウンドの持つ異様な緊張感は何か。性的な衝動を隠蔽しながら、売春地区を歩き回る人物の存在感が実感されるのは、鼓動でも呼吸でもなく、彼の足音である(註3)。
またターンテーブルの演奏をDJのそれからまったく根本的に変えてしまった音楽家にして美術家、Christian Marclayも興味深いレコード『FOOTSTEPS』を作った。彼はまずタップダンサーの即興的なダンスによる足音をLPにし、それを画廊の床にびっしりと整然と配列した。それは彼のインスタレーション作品として一般公開され、訪問者は自由にその上を歩き回ることができた。会期の後、彼はその1枚ずつ異なる足跡のついたレコードをパッケージして全世界に販売したのである。
傷付きやすいレコードというオブジェを踏むという破壊的行為が、その場では求められるというのも一種の侵犯的快楽だったろう(傷つきやすいものをむき出しにすることと、柔らかなものを堅い殻で覆うこと。これはどちらもヴァルネラビリティの提示という意味で同義である)。
足音の入ったレコードを踏み付け、そして新しい作品にする。これは足/脚を通じてレコードというフェティッシュ=死物に生命を与える行為とでも言えようか。
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ところで女性だけには限ったことではないが、サウンドを出すことは自意識の増幅に結びつく。最も初源のサウンド、それは声である。
乳児は泣いて、要求を示す。それが満たされると泣くのをやめる。しかし成長した幼児は声を出すこと、泣くことそれ自体が目的化する。あるいはまた音を出す、音が出る行為を発見し、その喜びに浸ると制止を無視してでもやり続けようとする。
音は伝達の手段ではなく、自己存在の確認のためのメディアでもある。だからハイヒールや角館の「鋲付き雪駄」は、サウンドのフェロモン発生器というのでは決してなく、女性が自らを意識し、鼓舞するためのツールなのだ。
鋭いヒールは接触に対する拒否であり、攻撃的な棘である。女性の棘、戦闘美少女のようなこの表象は、またアンビヴァレントな欲求を増幅する。それは「お祭り」装束の女性たちの、イナセ/オキャンの同一化、中性的な魅力に通じるものである。そしてアンビヴァレントで中性的であることによって、男女は各ジェンダー、各セックスの立場で、それをいかようにでも受容できるのである。
「やまぶつけ」に象徴される暴力的な昇華が、「お祭り」のひとつの機能となっていることは疑いない。町全体が日常とは異なるヒエラルヒーに支えられつつ、聖なる破壊的行為を共同で遂行するという地域的、氏族交感が演出されるのである。そして共同体に所属する者としての意識昂揚と、男女の交歓の兆しを演出する「見えない風景=サウンドスケープ」。それが「鋲付き雪駄」によって生成されていたのではないだろうか(註4)。
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「お祭り」が終わると角館は死んだように静かになる。そして秋は本番を迎える。
冬、私は角館の雪道を歩きながら思いだす。祭りの晩、街灯やネオンが消され、提灯だけが照らすほの暗い街路に、火打石のように雪駄が飛ばす火花と、あの雪駄の足音を。[onnyk/3, Aug. 2008]
註
(1)解体新書の挿画を描いた(というより原書の図を模写した)ことで有名な小田野直武も角館の出身である。平賀源内が秋田を訪れたとき、彼の絵を見てその技量に感心し西欧絵画の技法を教えた。それが秋田蘭画の端緒になり、司馬江漢も小田野に洋画を習ったといわれる。
また角館は映画のロケに使われることが多い。最近では藤沢周平の『たそがれ清兵衛』『隠し剣鬼の爪』などで有名だが、それはこの町に江戸時代の武家屋敷が現存する町並みがあることが理由だろう。しかし私は、現代劇として『君は裸足の神を見たか』(金秀吉監督、ATG、1986)の舞台としての角館に愛着を覚える。漱石の『こころ』を下敷きにした青春映画として内外に高い評価を得たこの作品では、登下校に角館駅を利用しているにぎやかな男女高校生たちの姿がそのまま重なるようで格別の思いを抱いた。
(2)ところで、鋲つきの靴といえば、すぐ思いだすのはタップダンスである。フレッド・アステアなどは超有名なのだが、ちょっと変わったところでは即興演奏との共演という例を紹介しておきたい。アメリカの黒人ダンサー、Will Gainesと、英国の即興ギタリスト、故Derek Baileyが共演した映像『WILL』が、ベイリーの設立したレーベルINCUSから発売されている。ここではゲインズは立って動きながらタップするだけでなく、純粋にパーカッションとしてのタップという意味なのか、座ったままでのタップも披露している。ベイリーはダンサーとの共演をそれほど残していないが、田中泯との共演は何度か行い、日本の白州での野外ライブ映像『MOUNTAIN STAGE』が同じくINCUSから出ている。
なおINCUSとは、中耳にある3つの小さな骨、耳小骨のまん中にあるもので、「砧」の形をしていることからその名がついた。耳小骨は鼓膜の振動を内耳に伝え音を感知させるための重要な器官である。
(3)英国で80年代に活躍したカルト的レーベル、COME ORGANIZATIONが製作したこのLPには謎が多い。600枚限定プレスだったためにオークションでは高値がつけられている。
このLPのジャケットには、GPOことGenesis B. P-Orridge、後に性転換して女性になったジェネシス・ポリッジ(P=オーリッジとも)の文章が載せられていることも有名であるが、彼の関与についても定かではない。1970年代後半に「死と性」を全面に打ち出したインダストリアル・ロックバンド、Throbbing Gristle(TG)の主導者であるGPOは、TG以前には、性的なパフォーマンスやメールアートのパフォーマーとして物議を醸す人物であった(彼の名前GPOにはグレートブリテン・ポストオフィスの意味もあるというし、ポリッジとはまた「粥」の意もあり、二重三重に言葉遊びをしている)。殺人教祖チャールズ・マンソンへのインタビューや、魔術師アリースター・クロウリーへの傾倒でも知られており、後にはカルトとしての音楽集団Psychic TVを組織して来日公演もしている。
彼の詞になるTGの曲には〈walkabout〉なる歌もあり、性的衝動を押し殺して歩き回る男をイメージさせることも追記しておこう。
(4)しかし考えてみると「やまぶつけ」が行われるようになったのは、「やま」に車輪がついてからだろう。かつぐ「輿」の形ではぶつけるのはほとんど不可能だ。その背景には角館の街路が舗装されてきたこともあるのではないか。未舗装の街路でも車輪付きの山車が動けないことはないが、轍にはまれば身動きしにくくなるのは当然だ。もしかすると対向状態になった「やま」同士が轍のせいで、すれ違えなくなったことから「やまぶつけ」が始まったのではないか? いや、まず交渉という形式が起こり、それから実力行使となったのかもしれない。そして、そんなことがくり返されているうちに交渉と実力行使(「やまぶつけ」という名称が定着することが重要だろう)も形式化していったのではないか。とすればここに儀礼発生の形を見ることになるのかもしれない。
また舗装の問題は「鋲付き雪駄」にも関連する。つまり鋲の音響効果は舗装道路でなければ発揮できないだろう。あるいはかつて未舗装の路上では「滑り止め」効果のあった鋲が、別の意味を生じて生き残ったのだろうか。とすればここにもフェティッシュの生成と変容を見ることになるのだろうか。識者へのインタビューをする必要がありそうだ。
謝辞:今回の文章を書くにあたり、戸沢君、菅原君から貴重な助言をいただいたことを感謝します。
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コメント
現代音楽シーン、まして即興音楽の知識はまったくないにもかかわらず、onnyk氏の知人として、この連載を毎回興味深く、かつ注意深く拝見しております。
今回の、「鋲付き雪駄」によって生成されていた「見えない風景=サウンドスケープ」へのくだりには、onnyk氏の音楽が形成される原点的なものを感じ、非常に感銘致しました。
実は角館の夜祭りには、十数年前、友人と行ったことがあります。白々とするまでずいぶん歩きました。
そのときの情景はよく覚えていますが、ジャッ、ジャッ、ジャッと鳴っていたはずの、またそれ以外の「音」の記憶が不思議とないんです。
私はむしろ「やま」激突場所以外の静謐さの方が印象に残ってます。
その感じは、飛騨の高山祭で、夜、車も通らない道路を広く開けて遠くからゆらーりゆらーりと山車がやってくるのを息を詰めて待っていたときの静けさに似てる、と唐突に思い至りました。緊張感をはらんだ、ハレ的静けさ。
実際はいろいろな音に囲まれていたんだと思うんですが、雑駁な音というよりは、ある特別な対象を待ち望む環境って、無音に感じられたりしますよね。
対象が<神>がかりであればなおのこと。
しかし残念ながら岩手ではそういう場は少なくなりつつあるように感じます。
先頃ポスター騒動でにわかに注目された、黒石寺の裸まつりなどは、その少ない方に当たるかもしれません。
観光ありきで作られた祭りでない限り、たとえ観光客に開かれた祭りであっても、よそ者は絶対に見ない、知らない部分があるべきと思います。
閉じられた濃密なものが強ければ強いほど、覗いてみたい欲望がわくのが道理ですが、それこそ「祭り」の本質でしょう。
今全国で「よさこい」がブームになっているらしいですが、北海道の洞爺湖サミットで各国首脳陣の前で披露されたのが「よさこい」だったのには失望しました。
まあ、そこまで気張る相手たちではなかったにしろ、どうも日本の底の薄さを露呈したようで。
余計なことを書き連ねました。
益々のご健筆を期待します。
投稿: y-n morioka | 2008/08/30 21:33
Re. Taliban. Islam culture and Taliban principle should not be mixed together. In the destitute place like Afghanistan, you cannot teach moral value upon educations but strict disciplines (or taliban's case 'restrictions'). Middle East knows very well that how their oil countries were taken over by Western by seduction of money and sex (read "Confessions of an Economic Hit Man" by John Perkins).
投稿: izumi | 2009/01/11 15:40