« 沼野雄司のボストン通信05(2008/12/28) | トップページ | 音楽非武装地帯 by onnyk[006]自分の声は聴こえない(その1) »

2009/02/03

谷口昭弘の「アメクラ・セミクラ」003──標題音楽は嫌われもの?

 音楽のジャンルに上下をつけるなんて気に入らないと私はふだんから思っているのですが、いつも蔑まれていて、なおかつ、あまりそのことが問題にされない音楽ジャンルがあるように思います。それが「描写音楽」です。どうやら描写音楽とは標題音楽の一種らしいのですが、そのなかでも格別に忌避されるべき存在のようになっているような気がします。

 たとえば、あるコンサートで演奏される曲目に「標題音楽」があって、ふとプログラム冊子で、その曲の解説が読むと、「……しかしこのタイトル(あるいは標題)は、なにかを描写するものではなく……」というひとことが添えられていることが多いですよね。いやもちろん、そのひとことは作曲家の主張でもあって、尊重すべきことだとは思うものの、この「描写するものではない」という言いまわしには、「どうか描写音楽ではないので、そこだけは混同しないでいただきたい」という願いがこめられているように思われてしかたがないのです。それくらい「描写音楽」の存在は蔑まれているのです。

 もっと露骨に、描写音楽は「低俗」だと明言されている例もあります。たとえば、日本で学校の教材として作られている音楽の鑑賞レコードの解説に、こんな一節をみつけました。プロコフィエフの組曲《冬のかがり火》から〈出発〉を解説した部分です。

描写音楽の中には、音楽性の低いものもあり、描写音楽=低次元の音楽ととられがちであるが、プロコフィエフのような巨匠の手になる作品は、決してそうではない。

 プロコフィエフの〈出発〉は、小学校の1年生向けに、蒸気機関車を描写した音楽として選ばれています。子どもたちにとって、プロコフィエフがロシアの作曲家として巨匠であること、あるいは聴いている音楽が描写音楽であることが、どれほどだいじなことなのか疑問ではありますが、このように「低次元の音楽」ととられがちな描写音楽が、学校音楽の初期段階で選ばれることも、多いように思われます。

 + + + + + + + + + +

 ところで、一般的に、日本の音楽教育は、アメリカのシステムに大きく影響されていることが知られているのですが、アメリカの音楽鑑賞の教科書では、描写音楽はどのような扱いを受けているのでしょう?

 筆者の手元には、レコードを使って音楽鑑賞教育をするもっとも古い教師用指導書のひとつListening Lessons in Music(Boston: Silver Burdett, 1916)があるのですが、この本のなかには「描写・模倣音楽(Descriptive and Imitative Music)」という項目があります。そして「The Sensory Period」──これは「感覚運動期知能期」のことでしょうか?──にふさわしい音楽として、こんな曲が選ばれています。

 プロイラー:口笛吹きと子犬
 オールト:時計屋の店先で
 ハーバート:剣の踊り(《ナトマ》より)
  ※原書に作曲者名は書かれていなかったので、筆者が書き加えました。

 「ああ、知ってる」という曲もありますね。ちなみに、これらの曲を鑑賞教材とする理由は「背後にある物語や好奇心をそそる要素をつうじて、自然で容易な集中を、確実に得られる」からなのだそうです。つまり、子どもたちの興味関心をひく主題を扱った音楽作品ということです。

 さらに1920年、Victor Talking MachineによるMusic Appreciation for Little Children(Camden, NJ: 1920)になりますと、この「子どもたちの興味関心」が、より具体的に書かれています。

 小さな子どもたちは、物語が大好きである。そして、彼らが理解している物語を語る音楽は強くアピールする。そのような音楽はまず、自然の音や、子どもたちに身近な人間生活を模倣するものなので、子どもの興味をすぐに引き出し、集中力を高め、より抽象的な性格の音楽をのちのち鑑賞するための基礎となるような、緊張と知覚が発達させられる。

 ただし、描写音楽は美的にアピールする音楽への準備段階ほどしか価値や関心をもてない音楽だというような誤解をまねかないようにしたい。描写音楽は、それじたいに価値があり面白く、想像力豊かな子どもたちは、世界の言語を聴くのと同様に、強い関心を示すだろう。

 ここには抽象的な、絶対音楽により高い価値をおくという考え方があるのと同時に、この絶対音楽の鑑賞にいたらせるために描写音楽があり、子どもたちに魅力的な最初の一歩を提供するというしかけがありです。ただいっぽうで、「描写音楽は道具」だという露骨な見方も、それほど強くないように思います。

 また、子どもたちが身近に感ずる内容の物語がたいせつだという考え方もあるようです。絵本の世界、乗り物の世界、おもちゃの世界、動物の世界を扱った音楽が小学校では多く選ばれるような印象があるのですが、そこには「親しみやすさ」をなによりも優先する発想があるのでしょう。

 いずれにせよ、描写音楽は、子どもたちにとっては親しみやすいものであると、教える側は考えているようです。考えてみれば、絶対音楽のように楽譜を読んで音の展開を考えなくても、描写音楽の場合は、鳴っている音楽の状況や物語を頭のなかで再構築できますので、先生が曲を解説するにしても、作曲家の伝記やら楽曲分析ではなく、親しみやすい「おはなし」から始められるという便利さも考えられます。

 そんな描写音楽を扱ったCDは、今でもいくつか発売されていて、アマゾンなどに書かれた感想文には、「学校で聴いた懐かしい音楽」だとか、「子どもに聴かせたい音楽」だとか、書かれてあります。

 + + + + + + + + + +

 では、そんなに親しまれている描写音楽が嫌われるとしたら、そこにはどういう要素があるのでしょうか?

 おそらくそのひとつは、描写音楽は、「クラシック」のなかでは「本格的」な作品ではないという考えが支配的だということでしょう。導入としてはいいけれど、やがて通りすぎるべき、卒業すべき音楽として、描写音楽を位置づけている。すでにその段階を「卒業」した人にとって、描写音楽は避けるべき存在なのでしょう。

 また音楽的には、楽器で音を模倣することにたいする抵抗があるのかもしれません。《口笛吹きと子犬》だったら、口笛が吹かれてて、最後に子犬が出てきます。ルロイ・アンダーソン《ワルツィング・キャット》(小学校の教科書では《おどるこねこ》と表示)だったら、弦楽器が猫の鳴き声を真似する。曲としては親しみやすくていいのだけれど、それで作曲といえるのか、みたいなことを考える人がいるのかもしれません。

 冒頭でご紹介したような、作曲家が「プロコフィエフのような巨匠でない」ということ、そして短い作品だという理由もありそうです。ハイドンの《四季》における狩猟銃の音、ベートーヴェンの《田園》におけるかっこうや雷雨など、「巨匠」の作品にも描写はみられますが、長大な作品の一部だということもありますし、有名作曲家ですから、どうしても「描写音楽だ!」と一蹴することは難しそうです。いっぽうなにかを描写しただけの短い曲なら、気持ちよくけなせそうです。

 描写音楽については、その功罪だけでなく、面白さについても考えてみる必要があるのではないかと思っています。

[谷口昭弘]

|

« 沼野雄司のボストン通信05(2008/12/28) | トップページ | 音楽非武装地帯 by onnyk[006]自分の声は聴こえない(その1) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/29830/43942205

この記事へのトラックバック一覧です: 谷口昭弘の「アメクラ・セミクラ」003──標題音楽は嫌われもの?:

» イケベ楽器 [イケベ楽器]
イケベ楽器から通販で買うと中古品でも3ヶ月間の保証が付いています。購入後のリペアでも割引があったりして安心です。イケベ楽器から通販で購入して [続きを読む]

受信: 2009/02/06 11:28

« 沼野雄司のボストン通信05(2008/12/28) | トップページ | 音楽非武装地帯 by onnyk[006]自分の声は聴こえない(その1) »