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2009/02/08

音楽非武装地帯 by onnyk[006]自分の声は聴こえない(その1)

◎録音された声の不思議

 誰でも経験したことがあるだろうが、録音された自分の声を初めて聴くと、そのあまりの意外さに仰天する。というか嫌悪さえ感じてしまうのではないだろうか。

 たんにその声質への違和感だけでなく、イントネーション、アクセント、あるいは「訛り」、さらには口癖までが否応なく迫ってくる。「これは本当に私の声?」と思いたくなるのも無理はない。「私はもっといい声で、もっと感じよく話しているはずだ」と思う。しかし、その場で再生されれば、否定のしようがないし、時間が経って「これ、あなたですよ」と言われれば、確かにその記憶は蘇ってくる。

 こうした「自分の声への違和感」はいずれ消える。

 いかにしてか? それは繰り返し聴いていくうちにではあるが、ただ聴いているだけでは駄目なようだ。その違和感、あるいは自分の持っている自分の声へのイメージと聴覚印象の差異を解消していくには訓練を要する。

 録音する、される機会はいろいろだろう。自分の声を使って発表をしなくてはならない場合は、録音して聴いてみるのは珍しいことではない。まず幻滅し、そして自分なりの改善点をチェックしながら再挑戦。何度かそれを繰り返しているうちに違和感は消えていく。かつて録音技術が普及していなかったころは、あるいは今でも、人の前でリハーサルすることによって客観性を得ようとするだろう。つまりモニタリングである。モニターが、指導者や共同作業している人はよくあることだが、ときにはまったくの他人を起用することもある。ひいき目や先入観の排除のために。いずれ、それによって自分の声に対する客観的な受容が形成されていく。


◎自分の演奏を聴く

 楽器演奏にも同じことがいえる。「電気楽器以外の古典的な楽器類」を演奏する場合、最初のうちは満足に音が出ない。ようやく音が出てきたと思っても、今度はコントロールできない。さて、ようやくそれも可能になり、ちょっと練習したフレーズやらメロディを録音してみる。これが悲惨である。自分が出しているつもりの音がまったく出ていない。これもまた何度もやっているうちに違和感は解消されてくる。決して「うまくなる」というのではないが、「自分の音」というものが「見えてくる」のだ。そして、人前で演奏する機会などあれば、そのたびに録音して聴いてみると、自分の欠点や特徴がまざまざと「見えてくる」。これが、自分の声の場合と同じという意味だ。

 しかし、「自分の声や自分の演奏を本当に聴くこと」はできるのだろうか。そういう疑問がつねにつきまとっている。これはいわば根源的な不安である。さらにこれを敷衍して、「自分の姿を見ることはできるのだろうか」という疑問さえ浮かぶ。鏡に映っているのはとうぜん反転像であるし、それ以上に「自分の見たい自分の像」にすぎない。だから写真や録画で見せられた自分をどこか恥じてしまう。しかしあなたの像は、あなたが決めているのではなく、他人の視線が形成したものなのだ。


◎鍵盤楽器と電気楽器

 私はさきほど、あえて「電気楽器以外の古典的な楽器類」と書いた。つまりここに電気楽器を加えていない。さらに突っ込んでいえば鍵盤楽器もいれたくない。それには理由がある。

 鍵盤楽器と電気楽器には共通性がある。それは「発音体、音響発生部分から身体が離れている」ことである。また「音量が身体の力そのものに依存せず、いったん別の力に変換されていることである」。たとえばオルガン、チェンバロは基本的には、演奏者がいくら指に力をいれて鍵盤を押そうと、アタックは変わらないし、音の減衰にも影響しない。

 ピアノはどうだと言われるかもしれない。ピアノの正式名称はご存知のとおり「ピアノフォルテ」である(ほんとはもっと長いんですね)。つまり弱音から強音までを指のタッチで変えることができるという画期的な鍵盤楽器だったのだ。このしくみは、指が鍵盤を押す力をいかに、弦を叩く力として伝達するかにかかっている。この機構を開発したことで、ピアノ音楽は発展した。

 もっとも、ピアノ以前にもタッチを、直接、弦に伝えることができる楽器は存在した。ある種のヴァージナルなどがそうである。しかしその音量は小さい。ピアノの、あの大音量は、頑強な鋼鉄製のフレームによって維持された、20トンにも及ぶ強大な張力を内在するピアノ線によるものである。これは音量の増大という方向にあった西欧楽器の帰結であり、産業革命、市民社会の趨勢と軌を一にした。大きな音量、それは「電気的増幅」という手段によって、おそらく望むだけの可能性を得るにいたった。その意味ではピアノは「増幅」の前触れでもあった。

 電気楽器は基本的に、発音体が演奏部分には備わっていないといえる。あるいは発音体の音を拡大しているのではない。電気楽器のサウンドを決定しているのは「アンプ」だ。厳密にいえば「アンプ」は、アンプリファイヤー=増幅装置の略だから、鳴っているのはスピーカーなのだ。

 エレキ・ギターを考えてみよう。これは決して生ギターの音を増幅しているわけではない。金属弦の振動を磁界の中のコイルが電流に変換しているのだ。それがシールド(演奏者はギターとアンプをつなぐコードをこう呼ぶ)を伝わってアンプで増幅されスピーカの振動となる(昔は、エレキ・ギターのコードが電源、つまりコンセントにつながっていると思っている人がいた)。

 ロック好きの方なら説明は不要だろうが、ワウ、ファズといったエレキ・ギター独自のサウンドがある。これは、ギターの音が肉声化、受肉化したようなものだ。あるいはヴォリュームが減衰しない、サステインの響き、それどころか、アタックよりも残響のほうの音量を上げることさえも可能だ。つまりギターの1音を意のままに持続できるというわけだ[註1]

 ともあれ、オルガンもエレキ・ギターも、演奏者の身体から離れたところで音が鳴る。これは、そうではない楽器と決定的に異なる点がある。体から離れることで、振動が直接身体に伝わらないのである。

 オルガン、とくに教会に設置されたそれは、巨大な送風機構と林立するパイプ群を備え、持ち運びできるようなものではなかったが、ハルモニウムやレガールのような移動可能な機種も存在した。

 オルガンの元祖はバグパイプである。これは人間が送風機となり、革袋がポンプとなり、革袋に接続されたリード付きの笛を鳴らすしくみである。その笛、つまり発音体であり、かつピッチをコントロールする部分が複数になったとき、笙やケーンなどの原始的マウス・オルガンが生まれた。そして指穴の代わりに鍵盤が用いられたとき、リード・オルガンが生まれた。

 話を戻そう。「自分の声を本当に聴くこと」はできるのだろうか。そして「電気楽器以外の古典的な楽器類」を演奏する場合も「自分の演奏を本当に聴くこと」ができるのだろうか。

 私がそのような疑問を持つにいたったのは、やはり「自分の声」「自分の演奏」への違和感と、その原因だった。


◎聴く、ということ

 ご存知のことだろうが、音は2つの経路で聞こえてくる。内耳に振動が伝わることで種々の振動は「音声」として認識されるが、その伝導経路はひとつが空気伝導で、もうひとつは骨伝導である。

 声は声帯振動が声道、つまり気管や口腔、鼻腔を通って軟口蓋、舌、歯、唇などによって周波数成分の変化を受けつつ、体の外側に放射される「音響」である。

 この声=「音響」は口からだけではなく口を主として顔面、頭部から、空気を媒体とした音波となって放射され、それは外耳から入り、鼓膜を震わせて耳小骨を介して内耳へ至る。しかし、それと同時に、あるいはそれより早く(?)、体の内部から「歯、骨という硬組織」の振動によって直接に内耳へ達する。内耳という器官は頭蓋骨(正確にはそのひとつである側頭骨)の中に埋まっている。固体の中を伝わる振動のほうが、空気振動よりも早いし減衰がない。だからわれわれが「自分の声」として聴いている「音声」は、かなりの割合で、骨伝導されたほうの「音響」なのだ(聴力障害者はパイプオルガンのようなサウンドは身体で直接感じることができるという。聴力障害と音楽の関係については、このブログを開始した当時も少し触れたが、打楽器などは明らかに身体を通じた骨伝導がある。ただし聴力は内耳の問題だけで決定するわけではない)。

 聴力検査を受けた人は経験しているだろう。直接ヘッドフォンから出てくる音をだけでなく、耳の後ろの骨の固いところ(乳様突起という)に発音部分をあてられて、そこから響いてくる音を聴き分ける検査を。あれが骨伝導の検査である。

 「自分の声」として録音された音は、骨伝導はほとんど介さず、空気伝導で聴こえてくる。だから自分が出していると思っている声から、骨伝導を差し引いた音声なのだ。自分(が出していると思っている)の声の中に、いかに骨伝導の成分が多いことか。われわれが「かくあれかし」と思っている音声は、かなりの部分、骨を伝わって聴いていたのである。だから自分の録音された音声に馴れていくには、その補正をしてく必要がある。自分の思い込んでいる音声から、骨伝導成分を差し引いて聴く努力だ。

 「聴くということ」はたんに音波を認識することではない。ここまでの説明、かなり還元主義的だと私でさえ思う。しかし、神経生理学的に聴覚という現象を説明するならこんなものではすまない。事態はこれよりさらに微細なのだ。内耳でコルチ器官が何を感知しているか、どう伝えているか。ヘルムホルツの共鳴説、ラザフォードの電話説、ベケシの進行波、ハートラインの側方抑制……。それらをここで説明するよりは専門的な本を読んでもらったほうがいい[註2]

 もういちど。「聴くということ」はたんに音波を認識することではない。それは聴取という「行為」をとおして自己を確認することである。そして自己とは感覚と理性と、個人史=経験によって形成された心的コンプレックス(=組織)、そしてそれ以上の何かであろう。

 (この項続く)


[註1]
 誰の演奏を例にあげてもいいのだが、ジミ・マーシャル・ヘンドリックスとデレク・ベイリーという20世紀の革新的ギタリストをあげておこう。彼らのサウンドこそは、エレキ・ギター独自の特性を最大限に生かしていた(ジャンゴやジェフ・ベックのファンの人、ごめんなさい)。
 それだけではない。電流は信号となって変換され、別の楽器、別の発音体を駆動させたり、あるいは信号のシークエンスを記録したりすることさえできる。これはMIDIといわれるコンピュータによる自動演奏の原理であり、その後開発されたギター・シンセサイザーの原理ともなった(つまり入力機構を鍵盤でなくエレキ・ギターにしたというだけのことだ)。

[註2]亀田和夫著『声と言葉のしくみ』財団法人口腔保健協会、1986年
 この本は、いっけん新書版の手軽な科学読み物ふうだが、じつに内容が濃く、豊富だ。たんに生理的な聴覚の問題だけでなく、古典から説いて言語、音韻論なども紹介。関連する歴史もしっかり記載されている。

[onnyk/6, Feb. 2009]

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