音楽非武装地帯 by onnyk[008]自分の声は聴こえない(その3)
◎耳と機能
耳は、自分の位置を知るための器官であり、またそれは他者の位置を知るための器官でもある。その目的のためには、耳は目以上に働いている。
フクロウの頭骨を見たことがあるだろうか。非対称な形をしている。その理由は、左右の耳の位置が異なることによって、聴こえてくる音響の左右差から、その音響の発生源までの距離を知る。これによって彼らは夜間でも獲物をみごとに獲ることができる。視力の発達した鳥は日中の活動を主にするが、猛禽類の中で、夜間に狩りができるのは彼らだけだ。
海棲哺乳類のなかで、イルカ、シャチ、クジラなどの仲間は、海中の音響を下顎骨で聴いているらしい。海中というか水中では音の速度は早いし、水の流れ、温度などさまざまな情報は体全体からもたらされるだろう。魚類は耳の代わりに側線で環境情報を得ている。側線のない哺乳類にとって水中の音を下顎で聴くというのはまさしく骨伝導の最大活用だ[註1]。
海棲哺乳類が、水中での音響をさまざまに用いていることは有名な事実だ。クジラは何百キロも離れて歌での交信ができる。シャチは生息地によって獲物が異なるのだが、カリフォルニア湾内でサケを食べる群は、歯を擦り合わせる歯ぎしりのような音響を出し、しかもそれを特定の方向に向けて放射することでサケを気絶させることができる。イルカは群の中で盛んに音響による交信をおこなうが、これも方向性をさまざまに変えることができるという。シャチやイルカの頭部がふくらんでいることと、それは関係がある。ここには「メロン」と呼ばれる脂肪組織の塊が入っている。この形態を変えることによって自分の出す音を拡散したり、方向を定めたりすることができるのである。さらにイルカやシャチは交信だけでなく、コウモリのようにエコロケーション、つまり自分の出した音の反響による周囲の測定をおこなうことが知られている。彼らは目に頼っていないのである[註2]。
彼らは個体それぞれが別の音響を出しているのだが、たとえば独り言などすることがあるのだろうか?──つまり自分の声を自分で聴いて考えることがあるだろうか。エコロケーションは自分の音を聴くことにほかならないが、それは環境測定である。自分の測定した世界、それが彼の意識なのだろうか。だとすればこれはデカルト以来の疑問が彼らにもあるのではないか。
ゴリラに、絵文字タッチパネルを組み込んだコミュニケーション・ボードを与えて、意思疎通がどこまで可能か実験がおこなわれたことがある。そのことじたい興味深いが、私がなにより驚いたのは、ゴリラが実験者のいない時間にひとりで装置を操作して、「独り言」をしていたという点だった。「被験ゴリラは電子パネルで夢を語るか?」である。
内部からの声、内部からの音ということで思い出すのは、道教における身体修法の一部である。朝、起きると修行者は津液(唾液である)を飲み込み、また歯を左右それぞれかちかちと噛み合わせる。これは体内においては雷鳴、つまり天鼓であるとされる。これが「気」を活性化する修法のひとつであるというのだから面白い。気は骨伝導でもあるのだ。
◎主観と客観
自分の声を聴く、これには二重の意味がある。つまり外部を経由しない音を聴くこと。そして外部からモニタリングされた音を聴くこと。
そして自分の声を聴くことができないというのは、この両者がつねに渾然一体となっているからだ。自分の出しているつもりの声・音は主観性と客観性のないまぜだということだ。そして声を、音を出すことを生業とする者は、それを止揚している。つまり自分の作る音を客観視し、かつそこに主張をもたせることができるのである。
もう25年以上も前になるが、現代美術界の重鎮、菅木志雄と話したことがある。彼は、私の住む盛岡市の出身で、年1回市内の画廊で個展を開くのだ。また同じころ、舞踏家、田中泯とも話したことがある。私は田中と、彼の主宰する「舞塾」を招聘してパフォーマンスとワークショップを企画したのだ。その当時、私がこだわっていたのが「自らの作品に対して客観的な態度をとることは可能か」という問題だった。いかにも青年期にありがちな問いではないか。そして私は真剣だった。私は当時から即興演奏を実践していたので、この問題も演奏という形式のなかから浮上してきたのである。
私はこの疑問を菅氏、そして田中氏に直接ぶつけてみたのだ。彼らは即時に、そして明解に答えた。それは可能だと。そのためには訓練が必要だとも言った。
一方は美術作品を制作する作家、そして一方は身体そのものを用いる舞踏家。演奏という問題はこの中間にあるように思えた。つまり楽器というオブジェを介して、身体性を表出すること、それが演奏であるように私は思っていたわけだ。
サウンドは明らかに外部にある。しかしその原因は「私」にある。サウンド自体が自立するような音楽をめざしていた私には、この疑問を解消することが重要な鍵と思っていたのだが、いざあっさりと答えられてしまうと拍子抜けした。それはそれでまた新たな疑問を引き起こした。「ではその訓練とは」ということだ。しかしその答えは得られなかった。
「客観性を得るための訓練」、これがその後の私の活動の通奏低音となったといっていいだろう。
私自身の方法は単純だった。それこそ「つねに演奏を録音すること、それを繰り返し聴いてみること」だった。それこそマイクの向こうにいる他者/神を想定して。
実をいえば私の主要楽器は2種あった。ひとつはサックスであり、もうひとつがエレキ・ギターだった。この2つの楽器における「客観性」の獲得は異なった様相を呈した。歯で音を聴いてしまうサックス、そして弾いている箇所と離れた場所で音が発生するエレキ・ギター。これまで、ここに書いてきた「自分の演奏の音」についての解析は、この2種の決定的に異なる楽器の経験によって得られた結果である。
私は今、自分のサウンドに対して客観的な立場で判断を下せるようになったと思っている。しかし、それはゴールではなかった。私が思うところの真の表現力は、(この文章の少し前のほうにも書いたことだが)主観と客観の止揚された位置にあるといっていいだろう。
別の場所に「即興演奏とはサウンドで儚い絵を描くことだ」と書いたことがある。また「即興演奏とは自己と社会の往還である」とも。前者が自己完結的なレヴェルの語りだとすれば、それを保ちつつ後者の発言をするのは、パラドキシカルでもある。しかし、このジレンマ、内的な「ずらし」の運動性こそが演奏を推進してきたのだ。
私は今、即興演奏の活動をほぼ休止している。即興演奏の終わり。それは絶対的な他者に託した「自分の声を聴く」という聴取の理想的状態である。今、自己との対話がひとつ完了したのである。私がまた「自分の声を聴く」ために語りだす日は来るだろうか。
+ + + + + + + + + +
余談。
もうひとつ、問題が残った。それは「人はなぜ『声色』ができるのか」ということである。他人の声を聴いて、それを真似ることがなぜ可能なのだろうか。ある人の声を真似るとき、私は彼の声に似て聴こえるように、つまり私のその場で発声する声を、彼の声の印象に近づけているはずだ。しかしそれでは骨伝導の要素はどうなるのだろう。彼の声を聴くだけにおいては、骨伝導の要素は少ないはずだ。そして、私が真似ていると思う声は、私自身の骨伝導によって、「他者の耳に聞こえている『私が真似ている声』」とは違うものになっているはずなのだが……。
おそらく、声そのものが似ていなくても、真似る対象の「語り、口調、フレーズ、口癖」、あるいは仕草などが、声の近似性の低さをカヴァーしてあまりあるのだろう。とすれば、まったく「誰の真似か」ということを事前に教えずに、声の質だけで真似た対象者を当てさせるのはほとんど無理だということになるだろうか。これは実験してみればわかることだろう。
私はまだこの問題に解決をみていない。
(この話題、とりあえず終わり)
[註1]
じつは発生学的にみて、下顎と内耳は密接な関係がある。内耳の原器は、個体発生でも系統発生でも、鰓弓という原始的な組織から分化してくる。人間でもそれは同じことで、胎生4週ごろ、胚=胎児の頭部の下方に発生する第1鰓弓という原始的器官がある。この内部に、メッケル軟骨という組織ができる。これは下顎の骨の成長を誘導し、そのものは消滅していくが、一部が残って3つの耳小骨(鼓膜と内耳をつなぐ小さな骨)の2個になる。
[註2]
クジラの場合、さらに複雑な機能があるのだが、この脂肪体、または鯨油の驚くべき機能は、江戸幕府への開国を迫ったアメリカの政策や、機械産業の発展と大いに関係があるのだ。
大脳生理を研究していた科学者、ジョン・C. リリーが、クジラやイルカに、人類発生以前からの叡智があると想像したことや、彼の提唱したタンキング実験=感覚遮断が、アルタード・ステイツ(変成意識状態)をもたらしたことも、そんなに関連がないわけではないと付け加えておこう。
[onnyk/6, Feb. 2009]
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント