◎寄り道;サックス談義
では古典的楽器演奏ならどうなのか。私のいう「古典的楽器」は、いかなる種類であれ発音体や共鳴体が、演奏者の身体に接しているものである。
典型的な例をあげよう。サクソフォン(サックス)である。サックスはリード楽器であるから、マウスピースを口にくわえる。そのくわえ方(アンブシュア)にもいろいろあるのだが、いずれ歯に直接(噛み方によっては下唇を介して)振動が伝わる。初心者にとって、これは楽器自体から出る音よりも強烈に、直接頭に響いてくる。馴れてしまうと、むしろこの振動によってリード(簧とか弁ともいう)の状態を把握できるようになる。
だから初心者のうちは自分が出していると感じている音響のほとんどが、骨伝導で聴こえていることになるだろう。いや、かなり演奏に馴れてからでさえ、録音された自分のサックス演奏が聴くに耐えないということがままある。熟練してきた奏者は、演奏している瞬間の自分の音がどう出ているかを補正して聴くことができるのだ。主として骨伝導で聴こえている音から、実際にはどういう音で響いているかを推定できるのである[註1]。
だから、おかしな話だが、不良なPA(パブリックアドレス=ステージ上の複数の音響をバランスよく会場と、演奏者に聴こえさせるシステム)環境、ごちゃごちゃした演奏状況、興奮したフリー・ジャズなどの状況がそろったとき、下手なサックス奏者は高音ばかり多用することになる。なぜなら、そのような状況では「頭に響いてくる音を聴きながら、出ている音を制御する」というのは至難の技だからだ。ある意味、コントロールを放棄した音響が要求されているということだろう。
話はまたそれるが、PAとは結局、ある局所の音を周囲に配置するという以上に、自分の出している音をフィードバックするシステムなのだ。なぜなら、自分の声を聴けないような状況では、少なくとも意味あるテクストを話す、歌うことができないのである。これを実験するならエコーやディレイを過剰にきかせたマイク、スピーカーの組み合わせで語ってみることだ。結局われわれは自分の声を聴きながら考えている。それは声を出していることも伴わないこともあるのだが、音声として外部に出ている場合、どうしても声の伴わない頭の中のテクストより、聴こえてくる自分の声に依存して発声してしまうのだ。
そう考えると、PAがナチスで重用されたのもわかる気がする(もっとも彼らの場合、分列行進で歩調を揃えたり、巨大な集会で音声が端まで届く差を解消したかったからなのだろうが)[註2]。