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2009/02/22

音楽非武装地帯 by onnyk[008]自分の声は聴こえない(その3)

◎耳と機能

 耳は、自分の位置を知るための器官であり、またそれは他者の位置を知るための器官でもある。その目的のためには、耳は目以上に働いている。

 フクロウの頭骨を見たことがあるだろうか。非対称な形をしている。その理由は、左右の耳の位置が異なることによって、聴こえてくる音響の左右差から、その音響の発生源までの距離を知る。これによって彼らは夜間でも獲物をみごとに獲ることができる。視力の発達した鳥は日中の活動を主にするが、猛禽類の中で、夜間に狩りができるのは彼らだけだ。

 海棲哺乳類のなかで、イルカ、シャチ、クジラなどの仲間は、海中の音響を下顎骨で聴いているらしい。海中というか水中では音の速度は早いし、水の流れ、温度などさまざまな情報は体全体からもたらされるだろう。魚類は耳の代わりに側線で環境情報を得ている。側線のない哺乳類にとって水中の音を下顎で聴くというのはまさしく骨伝導の最大活用だ[註1]

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2009/02/15

音楽非武装地帯 by onnyk[007]自分の声は聴こえない(その2)

◎寄り道;サックス談義

 では古典的楽器演奏ならどうなのか。私のいう「古典的楽器」は、いかなる種類であれ発音体や共鳴体が、演奏者の身体に接しているものである。

 典型的な例をあげよう。サクソフォン(サックス)である。サックスはリード楽器であるから、マウスピースを口にくわえる。そのくわえ方(アンブシュア)にもいろいろあるのだが、いずれ歯に直接(噛み方によっては下唇を介して)振動が伝わる。初心者にとって、これは楽器自体から出る音よりも強烈に、直接頭に響いてくる。馴れてしまうと、むしろこの振動によってリード(簧とか弁ともいう)の状態を把握できるようになる。

 だから初心者のうちは自分が出していると感じている音響のほとんどが、骨伝導で聴こえていることになるだろう。いや、かなり演奏に馴れてからでさえ、録音された自分のサックス演奏が聴くに耐えないということがままある。熟練してきた奏者は、演奏している瞬間の自分の音がどう出ているかを補正して聴くことができるのだ。主として骨伝導で聴こえている音から、実際にはどういう音で響いているかを推定できるのである[註1]

 だから、おかしな話だが、不良なPA(パブリックアドレス=ステージ上の複数の音響をバランスよく会場と、演奏者に聴こえさせるシステム)環境、ごちゃごちゃした演奏状況、興奮したフリー・ジャズなどの状況がそろったとき、下手なサックス奏者は高音ばかり多用することになる。なぜなら、そのような状況では「頭に響いてくる音を聴きながら、出ている音を制御する」というのは至難の技だからだ。ある意味、コントロールを放棄した音響が要求されているということだろう。

 話はまたそれるが、PAとは結局、ある局所の音を周囲に配置するという以上に、自分の出している音をフィードバックするシステムなのだ。なぜなら、自分の声を聴けないような状況では、少なくとも意味あるテクストを話す、歌うことができないのである。これを実験するならエコーやディレイを過剰にきかせたマイク、スピーカーの組み合わせで語ってみることだ。結局われわれは自分の声を聴きながら考えている。それは声を出していることも伴わないこともあるのだが、音声として外部に出ている場合、どうしても声の伴わない頭の中のテクストより、聴こえてくる自分の声に依存して発声してしまうのだ。

 そう考えると、PAがナチスで重用されたのもわかる気がする(もっとも彼らの場合、分列行進で歩調を揃えたり、巨大な集会で音声が端まで届く差を解消したかったからなのだろうが)[註2]

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2009/02/08

音楽非武装地帯 by onnyk[006]自分の声は聴こえない(その1)

◎録音された声の不思議

 誰でも経験したことがあるだろうが、録音された自分の声を初めて聴くと、そのあまりの意外さに仰天する。というか嫌悪さえ感じてしまうのではないだろうか。

 たんにその声質への違和感だけでなく、イントネーション、アクセント、あるいは「訛り」、さらには口癖までが否応なく迫ってくる。「これは本当に私の声?」と思いたくなるのも無理はない。「私はもっといい声で、もっと感じよく話しているはずだ」と思う。しかし、その場で再生されれば、否定のしようがないし、時間が経って「これ、あなたですよ」と言われれば、確かにその記憶は蘇ってくる。

 こうした「自分の声への違和感」はいずれ消える。

 いかにしてか? それは繰り返し聴いていくうちにではあるが、ただ聴いているだけでは駄目なようだ。その違和感、あるいは自分の持っている自分の声へのイメージと聴覚印象の差異を解消していくには訓練を要する。

 録音する、される機会はいろいろだろう。自分の声を使って発表をしなくてはならない場合は、録音して聴いてみるのは珍しいことではない。まず幻滅し、そして自分なりの改善点をチェックしながら再挑戦。何度かそれを繰り返しているうちに違和感は消えていく。かつて録音技術が普及していなかったころは、あるいは今でも、人の前でリハーサルすることによって客観性を得ようとするだろう。つまりモニタリングである。モニターが、指導者や共同作業している人はよくあることだが、ときにはまったくの他人を起用することもある。ひいき目や先入観の排除のために。いずれ、それによって自分の声に対する客観的な受容が形成されていく。

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2009/02/03

谷口昭弘の「アメクラ・セミクラ」003──標題音楽は嫌われもの?

 音楽のジャンルに上下をつけるなんて気に入らないと私はふだんから思っているのですが、いつも蔑まれていて、なおかつ、あまりそのことが問題にされない音楽ジャンルがあるように思います。それが「描写音楽」です。どうやら描写音楽とは標題音楽の一種らしいのですが、そのなかでも格別に忌避されるべき存在のようになっているような気がします。

 たとえば、あるコンサートで演奏される曲目に「標題音楽」があって、ふとプログラム冊子で、その曲の解説が読むと、「……しかしこのタイトル(あるいは標題)は、なにかを描写するものではなく……」というひとことが添えられていることが多いですよね。いやもちろん、そのひとことは作曲家の主張でもあって、尊重すべきことだとは思うものの、この「描写するものではない」という言いまわしには、「どうか描写音楽ではないので、そこだけは混同しないでいただきたい」という願いがこめられているように思われてしかたがないのです。それくらい「描写音楽」の存在は蔑まれているのです。

 もっと露骨に、描写音楽は「低俗」だと明言されている例もあります。たとえば、日本で学校の教材として作られている音楽の鑑賞レコードの解説に、こんな一節をみつけました。プロコフィエフの組曲《冬のかがり火》から〈出発〉を解説した部分です。

描写音楽の中には、音楽性の低いものもあり、描写音楽=低次元の音楽ととられがちであるが、プロコフィエフのような巨匠の手になる作品は、決してそうではない。

 プロコフィエフの〈出発〉は、小学校の1年生向けに、蒸気機関車を描写した音楽として選ばれています。子どもたちにとって、プロコフィエフがロシアの作曲家として巨匠であること、あるいは聴いている音楽が描写音楽であることが、どれほどだいじなことなのか疑問ではありますが、このように「低次元の音楽」ととられがちな描写音楽が、学校音楽の初期段階で選ばれることも、多いように思われます。

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