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2009/03/04

沼野雄司のボストン通信06(2009/03/03)

Numano01 前の更新から2カ月がたってしまいました。この間、ボストンならではの大雪や、ときには零下20度という豪快な寒気をたっぷりと味わいましたが、ようやく寒さも緩んできたところです。写真は2月初旬に撮ったチャールズ川。ご覧のとおりで、冬の盛りには完全に凍りついてしまう。話には聞いていたものの、実際に目の当たりにすると、ちょっとした驚きがありました。

 さて、今回は主に、今年に入ってから体験した「出演」と「発表」についての話題です。

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 まず「出演」ですが、ひょんなことからニュー・イングランド音楽院(NEC)のジョーダン・ホールの舞台にたったという話。

Numano02 ボストンにおける現代音楽の「守護神」、スティーヴン・ドルーリーのことは前にも書きました(「通信」第3回)。彼が若い演奏家たちと作っているカリサンピアン・コンソートという現代音楽演奏団体が、1月27日の定期演奏会で、ジョン・ケージの《Lecture on the Weather》(1976)を演奏することになり、その出演者のひとりとして舞台に立たないかと誘われたのです(他のプログラムは、ヴァルター・ツィンマーマンやアンドリーセンなど)。会場のジョーダン・ホールは、音楽院の建物のなかにある、古いけれども、なんとも雰囲気のある場所です。

 ケージの作品はごくシンプルなもので、12人の男性がヘンリー・デイヴィッド・ソローのテキスト(それぞれ異なった文章)をいっせいに読むというのが基本的なプランです。ちなみにテキストのなかには、ときに「〜〜」といった具合のニョロニョロした線が書きこまれているのですが、ここは声のポルタメントでもいいし、楽器などを使って表現してもいい。そして、スコアには川のせせらぎや雷鳴の音源、そして抽象的なデザインが動きまわる映画(スライドのようなもの)が付属していて、これらが生の演奏と重なりあいます。ゆえに聴き手は、12人が読むソローのテキストが混濁して聞こえてくるなかで(さまざまな文章や単語の破片が耳にとび込んでくる)、川や雷雨の音をともなった、一種の疑似的な自然環境を体験することになるわけです。

 さて、二つ返事でこれを引き受けたあと、まず悩んだのは、ニョロニョロ部分をどうするか。こちらでは手持ちの楽器がなにもないので、最初は声でやろうかと考えたものの、試してみると、どうも冴えない。で、けっきょく、ボストンのケープコッド(岬)で妻が採集した石をいくつか網に入れて、それを擦りあわせて音を出すことに決定。つまり、あえていうならば、ニュー・イングランド地方の自然や生活を淡々とつづったソローのテキストと、ニュー・イングランドの先っぽで拾った石のサウンドを呼応させる、という解釈です。

Numano03 12人のパート譜(テキスト+ニョロニョロで構成されている)はそれぞれ内容も長さも違うのですが、僕のもらったパート譜は比較的短いほう。とはいえ、A4サイズで6枚ほどですから、ちょっとした分量はあります。テキストの英語はけっして難しいものではないながらも、あまりひどい発音では申し訳ないので、それなりに練習もしました。基本的には、これを約30分かけて(段落の合間で自由な長さの休止をいれつつ)読むわけです。

 ちなみに、ソローやエマーソンが住んでいたコンコードは、ボストンから車で1時間くらいのところにあるのですが、さいわいなことにこの1年、親しい友人が住んでいたせいでここを何度か訪れる機会がありました。まさにソローの小屋があったウォールデン湖の周辺などは、今でもなにやら神秘的な美しさが充満していて、超越主義者たちのバックグランドがなんとなく肌で感じられるようでもあった。このケージ作品の演奏は、その意味でも、僕にとって興味深いものでした。

 さて、当日のゲネプロに出かけてみると、楽譜の指定どおり、全員分のマイク・スタンドが用意され、そして音響やスライドも完璧に準備ができている。もちろんそれはまったくあたりまえのことではあるものの、入場無料の演奏会ということを考えると、なかなかたいしたことだとも思います。ちなみに今回、ケージ作品の「演奏」を担当する12人のメンバーは、NECの学生と卒業生、教員、そしてハーヴァード出身の作曲家(メキシコ人とオーストラリア人)、そして日本の音楽学者という構成。

Numano04 本番は、なかなか不思議な体験でした。異なった声質、異なったテキストが舞台上で渦をまくなかに、さらに自分の声を置いていくわけですが、その上に録音された自然の音響が混ざると、妙な浮遊感が生じる。また、楽譜の指定で、演奏開始から最後にいたるまで徐々に会場の照明が落ちてゆくために、とりわけ暗くなった後半部はちょっと陶酔的な感覚も訪れました。写真は、だいぶ暗くなったところ。ぼやけてはいるものの、なんとなく雰囲気はわかると思います(右から2人目が沼野)。

 ボストンでもっとも足しげく通ったホールに、最後に自分も立つことができたのは、まったく愉快なできごとでした。声をかけてくれたスティーヴンに感謝しています。

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 そういえば、ここでひとつ余談。おそらくは、ハーヴァードに通う日本人学生でもっとも有名であろう「彼」と、つい先日、短い時間ながらもはじめて話す機会がありました。ラモント図書館のカフェで、たまたま近くに座っていたので、話しかけてみたというわけです。インタヴューでもなんでもなく、あくまでも一般学生としての彼と学内で雑談しただけなので、最低限の礼儀として(ファンのネット検索などに引っかからないためにも)名前は出しませんが、えー、つまりは本人が大変に才能豊かな弦楽器奏者で、かつ、お姉さんも同じ楽器で世界的に活躍している方です。

 現在は物理学を専攻していて忙しく、音楽関係の授業などにはまるで出ていないそうで、どうりで今まで見かけなかったはず。楽器の練習をどうしているのかと思えば、なんと寮の狭い部屋でやっているとのこと。同室の学生とか、まわりの部屋の連中はひどくぜいたくな体験をしているような……。ともかく、想像していたとおりの、じつにナチュラルでいい感じの若者でした。

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 閑話休題。本業の音楽学にかんしては、2月28日にアメリカ音楽学会の南西支部で発表をすることができました。

 ボストンにいるのに、なぜ南西支部なのかと思われるかもしれませんが、簡単にいえば、どうしても帰国前にアメリカで発表したいという思いがあり、そのためには時期的に間に合うのがここしかなかったということなのです。僕の場合、たんにアメリカの作曲家を研究しているというだけではなく、両大戦間のアメリカの社会主義にからんだテーマについて調べているだけに、やはりいちどはその成果を現地で公にしたいと思っていました。申請がとおったときにはけっこううれしかった。

 ゆえに、けっして大きな場ではないものの、自分としてはボストン生活のひとつの集大成として、この発表を位置づけていました。また、もうひとつの副次的な(しかし、小さくない)目的としては、アメリカでの1年間の生活で英語での発表のスキルがどれだけ上がったかを試すという気持もあった。ともかく、学会での質疑応答を含めた30分間が、いろいろな意味で、この1年間の最終試験だという気分です。

 学会が開かれるのはノース・キャロライナ州のウィンストン・セーラムという小さな街で、ボストンからは直行便がないので、前日にニューヨークを経由してグリーンズボロ空港に到着。宿は、会場であるセーラム・カレッジから徒歩10分のところにある、街でもっとも古いという由緒正しい……安ホテルを予約してあります。入ってみると、思ったよりも広い山小屋風の部屋で驚愕。日本円にして8千円くらいなのですが、ベッドルームの他に立派なリヴィングがついており、やはりボストンとは物価が違うなどと感心したり。

Numano05 当日、朝から雨が降っていたので、さっそくフロントで巨大な傘を貸してもらい、カレッジへ。徒歩10分のはずだったのですが、例によって例のごとく大学構内でさんざん迷い(これは僕にとっては宿命のようなもの)、およそ30分後、朝9時の開始ぎりぎりになんとか会場に到着。支部例会とはいっても年に2回しかないので、招待発表者1人を含めた合計9人が、朝から夕方まで、昼食休憩をはさんで延々と発表をおこないます。僕はなんと「トリ」だったので、他人の発表を聞いていてもなんとなく落ち着かない気分。

 発表のタイトルは 「Edgard Varese's Unfinished Espace: The Intersection Between the Artistic and Political Avant-Garde」というもので、ヴァレーズの未完の大作《空間》のプランがどのように変わっていったのかをたどったうえで、それが中断した理由と、そしてのちに発表された《空間のためのエチュード》との関係を明らかにしようとする試みです。これを調べる過程では、ハーヴァードの巨大なワイドナー図書館の資料が、素晴らしく役にたちました。

 ものすごく簡単にいえば、この《空間》は、1930年代から40年代にかけてのヴァレーズとテクノロジーの関係、そしてヴァレーズとアメリカ社会との関係を如実に反映しており、そうした状況に鑑みれば、まさに中断されるよりほかなかった作品であることがわかる、というのが発表の骨子です。また、その過程でヴァレーズの人生を貫く、一種のユートピア思想のかたちがおぼろげに見えてくる、と。

Numano06 さて、4時からの本番は、朝からさんざん待ったせいもあってか緊張もなく、じゅうぶんにリラックスしておこなうことができました。時間も過不足なくおさまり、パワーポイントも問題なし。もっとも大きな課題だった質疑応答では、あまりうまく答えられない質問もあったものの、しかし7〜8人ほどの研究者からつぎつぎに面白い問いが投げかけられて、英語の質疑応答ではじめて「楽しい」という感覚がもてたのは進歩でしょう(ポジティヴ・シンキング……)。こちらが返す英語は相変わらず拙いながらも、司会のベートーヴェン学者デヴィット・レヴィ(《第九》にかんする単著あり。写真右に立っている人)が、うまい具合にサポートしてくれたこともあって、なんとかこなすことができました。

 発表会場には、秋にAMSの全国大会で会った川本聡胤・牧子夫妻も応援にきてくれて(おふたりは、会場から車で1時間半のチャペル・ヒル在住)、じつに心強いものがありました。もちろん、発表のあとは3人で打ち上げへ。彼らが親切にも、ちゃんと近くのレストランに予約をとってくれていて、けっきょく午後5時すぎから深夜1時まで、延々8時間もワインとビールを飲んだというしだい。まったく、大変ながらも楽しい1日だった。

 というわけで、ささやかではあれ、とりあえず区切りをつけることができてホッとしました。ちなみに次の国際学会は、7月にアムステルダムで開催されるIAML/IMSの合同会議です。ここではまったく別のテーマで発表することが決まっているので、今回の経験を生かしてさらによい発表をめざしたいところ。

 さて、いよいよボストン滞在も残り1カ月弱。この通信も、次回が最終回になります。

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[今回のおまけ]

 先ほど書いたアムステルダムでのIAML/AMS合同会議というのは、IAML(国際音楽資料情報協会)とIMS(国際音楽学会)がジョイントしたコンファレンスですが、つい昨日、この会議の宣伝映像(!)がYouTubeにアップされていることを知りました。情報という点では別になんということはなく、街の名所を紹介がてらのジョークに近いものですが、いかにもオランダらしいポップな感覚で、気が利いている。ちなみに出演者(途中から出てくる、カラフルな箱を持った人たち)は、すべて本物の実行委員です。

[沼野雄司]

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コメント

「ジェフスキから反革命的だと批判された」と、ケージが愚痴った曲ですよね。

投稿: 閘門大師 | 2009/03/10 00:49

 おお、すごい方からコメントをいただきました。
 で、そのエピソードは、情けないことに全然知りませんでしたが、ジェフスキの批判は、なんとなくわかる。ただでさえノスタルジックなケージ作品の中でも、これは特にずぶずぶというか、「泣かせ」が入ってますね。

投稿: ぬまの | 2009/03/10 12:32

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