音楽非武装地帯 by onnyk[009]虫めづる姫君(その1)
1.ギャーッ、ゴキブリ!
今回のテーマはずばり「女性はなぜ、虫を嫌うのか」だ。
女性は、どういう状況であれ、大きさに関係なく虫がかさかさっと動いたり、ぷ〜んとよぎると「ぎゃーっ、やだやだ」だの「あ゛〜っ、虫、虫っ」だの妙な声をあげ、逃げ回る。
そういう場合、男性は、なぜか虫を探して捕獲するか殺そうとする。まあ、いいとこ見せようという下心もあろうが、どっちかというと「子供の頃によく虫をとって遊んだ」という話をしたり、「虫が好きだ」という人も多い。私もこの例にもれない虫好きである。
女性の中には虫を嫌うだけでなく恐れる人もいる。嫌うのと怖がるのはレベルが違うだけだろう。いろんな人がいて、「虫は嫌だが爬虫類は平気だ」とか「爬虫類も両生類もいやだ」などという人もある。あとでも述べるが、もはや虫の中に爬虫類、両生類が一緒くたにされているのである。「嫌いな存在」として一括り。まさしく蛇蝎のごとくというわけだ。
2.うまい虫はどれか
逆に「好きだ」となると、「食料としての昆虫」談義にも花が咲く。
「子供の頃、ハチノコを食った」だの「田舎の親戚ではイナゴの佃煮が好物だ」だの。イナゴは有名だが、地域によっては虫をよく食べるようだ。よく(?)なのかどうか知らないが。長野は昆虫食が多いらしい。
タイではタガメを食べるという。街角の屋台で乾燥させたそれを山積みにしているのを、昔のテレビ番組で見た。タガメはきれいな水でないと棲めないから、当時のタイの水田は水質がよかったのだろう。聴くところでは、香辛料の一種としても使うという(苦みがあるそうだが)。
糞茶という中国茶を飲んだことがある。茶の葉だけを食べる虫の糞を集めたものだ。さらさらした黒っぽい顆粒で、これを湯にとかして飲む。割に癖がないし、良い香りだ。
マゴタロウムシというのがいて、ヘビトンボの幼虫なのだが、川の浅瀬の底に棲んでいる。これを子供のカンノムシ(いったいどういう病気なんだ?)の薬として飲ませるという。
『ファーブル昆虫記』には、カミキリムシの幼虫を炙って食べる話が出てくるが、ローマ人の好物だったという。クスクスというらしいが、あの顆粒状のパスタではない。
最近筆者は知人に韓国製の蚕の缶詰をもらって食べたが、なにかショリショリした不思議な食感だった。昔の製糸工場では茹でた繭からとった蚕のさなぎを食べたそうである。これは栄養価が高かったともいわれる。
オーストラリア原住民のアボリジニは、ミツアリを食べる。彼らにとっては最高の甘いごちそうだという。
蜜といえば蜂蜜は最古の昆虫食かもしれない。先史時代から絵がのこっているし、世界中で蜂の巣を採取している。最近、ミツバチの世界でも巣に帰らないという異常が発生しているそうだ。虫媒花、つまり受粉をミツバチに依存することの多い果物類は、このために高価になるかもしれない。人工授粉では果実の形がいびつになってしまうという。
漢方では「冬虫夏草」というのが珍重される。これはセミの幼虫などに寄生する菌、セミタケのことで、幼虫の体から直接キノコのようなのが伸びているから、昔の人は冬のうちは虫で夏になると草になる不思議な生き物と思ったらしい。これは昆虫食ではないか。
まあ昆虫食について、あるいは虫を薬にすることについてはその方面の専門書があるだろうからこのへんで切り上げる。
3.ムシムシ大行進
女性の虫嫌いを探求しようと思って、いろいろ問いただしてみたのだがいっこうに埒が開かない。「嫌だから嫌なの!」「足がたくさんあって気持ち悪い」「足がとれるから嫌だ」「鱗粉が落ちるからいやだ」「たくさんぞわぞわ出てくるから嫌だ」などなど、まったく生理的な嫌悪感である。その生理的嫌悪感の性差を追求するというのだから大変だ。まずは男性の昆虫観を追究してみたい。
あ、ところで多くの女性たちは昆虫と、それに近い節足動物の区別をほとんどしていない。蜘蛛、ムカデ、ゲジゲジ、ワラジムシ、滅多にお目にかからないがサソリなど、昆虫ではないそれらも皆一緒である。彼女たちにとって「虫とは足がいっぱいあるもの」の総称であるが、どれに何本あるか正確に知っている人は少ない。
虫好きの男性代表と名乗るのはおこがましいが、私は幼年時代から虫が好きだったし、今でもそうだ。幼稚園の頃、いちばん好きだった本が昆虫図鑑であった。そのほとんどを記憶していたので、虫を見つければ即座に名前をいって大人を驚かしたものである。さらに私は虫で遊ぶのが好きだった。
私は鳴く虫にはあまり興味がなく、アゲハの幼虫を羽化させたり、ダンゴムシ(おっと、昆虫にあらず)を転がしたり、ときにはトンボの腹を外したりとひどいこともやった。ウスバカゲロウの幼虫、通称アリジゴクは乾いた地面に円錐形の穴を掘ってその底に潜んでいるが、そこに蟻を落とし、引きずり込まれるのを見るのも好きだった。まるで暴君ネロである。
その他、アワフキムシ、コメツキムシ、ツマグロオオヨコバイ、アオイトトンボ、チョウトンボなどちょっとマイナーな虫たちが好きだったのだが、いちばんのお気に入りはフウセンムシだった。
ご存知だろうか。とても小さな数ミリほどの水棲昆虫で、夏の夜に灯りに集まってくる虫たちのひとつだった。かなりの距離を飛んでくるくせに、歩くのはまったく苦手で、天井や壁につかまることもできない。テーブルの上でじたばたしているだけである。何のために集まったのかわからない。いずれけっこうな数が集まる。それを水を入れたコップにつまんで入れるのである。コップには水だけでなく小さくちぎったちり紙を沈めておく。フウセンムシは水中に入ると元気よく泳ぎだし、ぐんぐんと潜っていく。そして沈めたちり紙に掴まるのである。しかし、彼らの浮力のほうが勝るので、ふわふわと浮いてくる。すると彼らはそのちり紙を放し、慌ててまた潜って行く。これを繰り返すだけなのだが、私はいつまでも飽かず見ていた。
そして大人には「もう寝ろ」といわれ、ちょっとエッチなシーンや怪談仕立ての『ザ・ガードマン』を終わりまで見ずに布団に入ることになる。朝になると、コップの中には水とちり紙しか残っていない。明け方までにフウセンムシたちは、また飛び立っていったのだ。これが私の「夏の思い出」である。
なぜ、そんなことに夢中になったのだろう。なぜ、私は虫が好きなのだろう。
いろいろ想像してみたのだが、「虫をとること」は狩猟衝動の名残、または狩猟練習の名残なのではないだろうか。あるいは「虫を飼うこと」も家畜や有用動物飼育のシミュレーションだったのかもしれない。
そう考えると、子供たちとくに男の子たちが魚とりに夢中になるのもわかる。魚とりをして遊んだという人は多いだろうが、食べるためにとったという人はそう多くないだろう。むしろとることが目的化していたといえよう。幼稚園の頃、ベレー帽いっぱいにアマガエルを詰め込んで帰り、母親を卒倒させたこともある。とってきた魚、ザリガニ、オタマジャクシなどを(死んで腐るまで)飼って(?)いたという人も多いだろう。
子供は何かを捕らえること、飼うことが好きなのである。
その衝動は、動くものを注視するという反射に始まり、それを手で掴み、あるいはしゃぶって確かめるといったかたちで展開していく。その過程で、捕らえた相手に逆襲され、咬まれたり、刺されたり、引っ掻かれたりといった経験を積んで対処を覚えていくだろう。
こうした一連の発達が、女子より男子に強いであろうことは想像に難くない。大人になってもスズムシをやたらに増やして、知り合いにお裾分けしてまわるのも、カブトやクワガタの牧場を作るのは男だ。
しかしまた、男の子が最近の『ムシキング』のブームなどにみられるような、特に甲虫の機械っぽい体つきに憧れるのはまた別の衝動だろう。これはフェティッシュである。あるいはバッタの顔をした仮面ライダーでもよいが、虫の持つさまざまな能力(変身、飛翔、跳躍、重力を感じさせない動きなど)もまた魅力であろう。
フェティッシュといえば、蝶などの鱗翅目に魅せられた人々も世の中にはゴマンといる。モルフォチョウの輝きなどは鳥と見誤って銃で撃たれることもあるそうだが、ウスバシロチョウやらチョウセンアカシジミなんていう、ほんとにかそけき蝶たちがいかに多くの大人を狂わせてきたことか。密猟者や闇取引はあとを絶たない。蛾でも美しいものはたくさんいる。夜中にはたはたと飛ぶ白い精霊のようなオオミズアオの美しさを知っている方はどれだけいるだろうか。
しかしまた女性は、鱗翅目の粉っぽさ、つまり鱗粉を毛嫌いするのである(ところでいったいどうして鱗粉なんてものが生じたのだろう)。たしかに蛾の仲間には鱗粉に毒をもっているものがある。そいつらは幼虫の頃から毒虫だ。しかし全部の幼虫が毒をもっているわけではない。
そして幼虫たちはまた、鱗翅目やら鞘翅目(いわゆる甲虫類)にせよ、節足動物よりは軟体動物に近い姿態をしている。いわゆる毛虫、芋虫の類である。これがまた嫌われる。昔はキャベツ畑にモンシロチョウが群れ飛んでいたし、当然とれたてのキャベツにはアオムシがいたものだった。私は学校給食のスープの中にも見つけたことがある。まあ、さすがにこのときは嫌悪感をもよおしたが。食べ馴れていないだけだったのかもしれない。とはいえうまそうとも思えなかったが。
前に書いたように私はアゲハの羽化を見るのが好きだった。家の庭にはサンショウの木があり、そこに毎年卵が産みつけられるのだ。見えないほどの卵から孵化したばかりの幼虫は数ミリの大きさで、焦げ茶色に白の横線が入っている芋虫だ。少し大きくなってもその色あいで、遠目には鳥の糞そっくりである。それが3度目くらいの脱皮をしたあと、数センチほどになるとすっかり緑色になる。そして頭のほうには白い一筋の横線が入り、その両端に目玉のような文様がある。眼状紋というやつで、鱗翅目には成虫の翅にもそれをもっているものは多い。
眼状紋については赤間啓之が著書『ラカンもしくは小説の視線』で面白い考察をしている。彼によればゴッホやホルバインやファン・アイクの絵などにもそれがあるのだという。
眼状紋は一般には擬態の一種とされるのだが、彼はそれをいわゆる「邪眼」であり「死の欲動」であるという。私が見ている対象が、逆に私を見つめているということを意識させる、それによって私はさらにそれを見つめることになる。鳥が昆虫を捕食しようとしたとき、いきなり見つめられたら逃げ去るだろう。動物においては見つめるという行為が攻撃準備の一種だからである。人間でも「ガンつけやがって」というわけだ。
たいていの場合、見つめ返されると人は視線をそらすと思うのだが、意外にこれは普遍的ではなく、インドで歩いていると、外国人をじーっと見つめてくる視線によく会う。彼らは見つめ返されても興味の対象から眼を離さない。われわれの文化圏においても子供たちはそういう傾向がある。成長にしたがって視線をそらすことが一種の礼儀になってしまうのである。
話がそれてしまった。眼状紋だけが防御ではない。アゲハの幼虫に触れると首のあたりの体節のあいだからいきなりオレンジ色の突起が立ち上がる。これだけでもびっくりするが、それがかなり臭い。この匂いが捕食者撃退にどれだけ役立っているかは知らないが、彼らにできる抵抗はこのていどだろう。(この項続く)
[追記]
虫の話ばかりで音楽の話題が出ませんでした。次の回から出ますので、それまで推薦曲をお聞きください。
1960年代、アメリカのテレビ・ドラマのヒーロー『グリーンホーネット』のテーマです! クラブ系でもいいんじゃないかな。
この手のドラマのよくある設定で、非白人とかちょっと変わった助手、相棒がつくんですね。まあ、ドン・キホーテのサンチョ・パンサの役ですか。『グリーンホーネット』では、日本人の空手達人カトウの役でブルース・リーが出演していました。ときどき、主人公に不意打ちで襲いかかるというのがお約束でしたが、のちに映画『ピンクパンサー』ではパロディにされてましたね。
このテーマ曲、かっこいいですが、もとはリムスキー=コルサコフの《熊蜂の飛行》なんですねえ。あれ? ホーネットってスズメバチなんだけどなあ。
さらに誤解がありまして、この曲のタイトルを正確に訳すと《マルハナバチの飛行》なんです。つまりマルハナバチ、クマンバチ(正確な和名はクマバチ)とスズメバチとが混同されているようです。
盛岡では「スズメバチ・ウォーター」といってスズメバチのエキスを入れた疲労回復剤を売ってますが、各方面のアスリートには「効果が高い」と、けっこう人気だそうです。
クマバチやマルハナバチは暖かくなると、すごいスピードでよく飛んできますが、人にぶつかったり、家の中に飛び込んでくることも多いです。同じところを行ったり来たりする癖があるみたいです。丸くて黒くて(一部黄色いけど)、もこもこして、よく見るとけっこう可愛いです。スズメバチと誤解されてすぐに殺そうとしますけど、性格は攻撃的じゃないので、たたき落とさず、窓を開けて出しちゃってください。
[onnyk/22, Jul. 2009]
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コメント
えー、筆者ですが、余談追加です。アメリカのヒーローものに見られる、ちょっと特殊な脇役、助手の最初の例は、ローンレンジャーの仲間のインディアンかもしれませんね。よく敵に捕まってました。捕まるためにいたのじゃないかというほど。そう、つまりローンレンジャーは原住民の味方なんですよ。決して先住民を居留地に押し込めたりするようなことはないんです。もちろん世界各国に軍隊を送るのも、その国の人たちを共産主義の脅威、独裁者の圧政、大量破壊兵器の拡大、テロ組織と結託した原理主義から守ろうという理由なんですよね、きっと。いや、それはそれとして、バットマンも、キャプテンアメリカも助手付きでした。時代ですねえ。
投稿: onnyk | 2009/08/02 18:45