音楽非武装地帯 by onnyk[010]虫めづる姫君(その2)
4.虫の卵がびっしりと……
毎年、庭のサンショウにはアゲハが産卵してゆくわけだが、この「産みつけていく」という性質も嫌われる要素のひとつだ。
産みっぱなし、というのはひじょうに非人間的にみえるようだ。だから最近の研究で恐竜も卵が孵るまでそばにいたとか、子供の世話をしていたなどとわかると俄然、共感されるのである。魚でも稚魚を口に入れて世話するとか、蜂が翅で風を送って巣の温度を保つとか、蟻が幼虫の世話をかいがいしくしている様はきわめて好意的に報道される。逆に人間が子供を放置したりしたら、それこそ悪逆非道とされる。まあ、コンラート・ローレンツにいわせれば「人間的と思われるような行動は、ほとんど動物に見いだせる」ということである。
いずれ、思いもよらないところに「虫の卵」が見つかるし、ときにはそれが孵って幼虫がごそごそしているというのが「虫嫌い」にはたまらないのである。昔は小豆や米や麦などの保管場所にいろんな虫が発生した。特に嫌われるのは、大量にごちゃごちゃと幼虫が発生する様である。
聞いた話だが、冬にカマキリの卵、というか卵鞘を野原で見つけて持ち帰った。あろうことか机の中に入れて忘れてしまったという。春のある日、引き出しを開けたら、いっせいに孵ったカマキリの幼虫がわああっと出てきたのだそうである。まあこれは虫好きでもびびる逸話だ。
私の住んでいるあたりでは、ときおりクスサンやマイマイガが大発生する。コンビニの軒下の誘蛾灯の下には文字どおり山になって、死にかけがバサバサ動いていたりする。またそれを食べにくる雀たちもうるさい。雀は翅だけは残してゆくのでそのあたりが翅だらけになる。蛾の連中はなぜか死ぬまぎわになると「もはやこれまで。わが存在の証、いまここに」とばかり、いきなり産卵する。かくして町のあちこちの壁や窓に卵がびっしり産みつけられているのをときおり見かける。やはり気持ちのいいものではない。
最近はあまり聞かないがアメリカシロヒトリという蛾も大発生する輩だ。これは街路樹などに蜘蛛の巣のような白いネットをかけて、その中に幼虫がうじゃうじゃといる。これもどうも好きな風景ではない。
虫たちの「うじゃうじゃ、大発生」という気持ち悪さを利用したのが、映画『スターシップ・トゥルーパーズ』だ。人類は虫型宇宙人と交戦中である。アラモ砦とインディアンの包囲攻撃をもじったのだろうが、惑星上の要塞で人間の孤立した部隊が、怒濤のように押し寄せる虫たちの攻撃を受けるシーンがある。この虫のデザインが秀逸(かつ醜悪)で、カマドウマを凶悪にしたようなスタイルである。殺しても殺しても次々に現れ、ついに人間の部隊は全滅する。コオロギに似ているくせに鳴きもしないカマドウマは、なぜか気持ち悪い昆虫である。よく足がとれるのもこいつらの特徴だ。
昆虫的気持ち悪さの映画として、やはり『エイリアン』にもその要素がたくさんあった。まず、暗いところにびっしりと卵を産みつけてある、そして人の体に幼虫が入り込む、人は中から食い荒らされて、そこから幼虫が飛び出す。これはジガバチなどの狩りをする蜂類にみられる行動を模しているだろう。卵を芋虫に産みつけ、孵化した幼虫は動けないままの宿主を食い荒らすのである。続編では女王エイリアンが出てきて産卵するシーンもある。われわれは一般に胎内に異物が入ること、とくにそれが「他の生命」であることに恐怖を抱く。これについては後述する
病原体のベクター(媒介者)としての虫はたくさんある。蚊、サシガメなどは直接体にそれを刺しこんでくるのだからたまらない。蚊の媒介する病原体は数あるが、サシガメの媒介する「リーシュマニア」という病気はご存知だろうか。知らない人は「目黒寄生虫館」にでも行ってみるといい。ゴキブリについては、その体が不潔であるとされたが、感染性疾患の媒介についてはあまり大きな役割ではないらしい。ハエはゴキブリと同様の不潔さがあるけれど、種類によっては刺す。ウマバエとかツェツェバエである。後者は「眠り病」を媒介する。
異なる生命体としての病原性微生物と寄生虫が身体に入り込むことは、自他の区別を失うこと、自己同一性の喪失への恐怖なのかもしれない。これは社会的にも、そうみなされる傾向があり、特にファシズムが発展するさいには、異民族や移民の排撃を主張する純血主義を訴えることが強い契機となるのは歴史が証明している。日本も多民族国家としての道を歩まなければならない岐路に立っている。多様性こそが生存の可能性を高めるのは、理論的にも経験的にも正当なのだから。
また話題がそれそうだ。いずれ寄生虫は昆虫ではない。たしかに古来からその種の生物もわれわれはムシと呼んできた。清盛入道が厠から出てきて「むしが一斗も出た」と大笑いするくだりが平家物語にある。目黒寄生虫館にはいわゆる寄生虫の類の他に病原体を媒介する昆虫類も展示してある。
5.モスラサマ信仰
こうしてみると同一性の問題云々というより、もっと単純に悪魔、魔物としての虫、昆虫を考えることもできる。しかし、それら魔なる存在はまた、われわれを惹きつける。その強さによって。悪魔の王、ベルゼバブは巨大な蠅の姿をしていなかったか。
ご存知、東宝映画『モスラ』。ザ・ピーナッツ扮するところの小美人双子の歌によって制御される巨大な蛾、モスラの話である(あの忘れがたい旋律は伊福部昭の作品だとずっと思っていたのだが、古関裕而の作/編曲である。歌詞は本当にインドネシア語である。あ、ようやく音楽の話題が出た)。
モスラは、流された卵を取り返しにくる母性の強い善玉怪獣となり、ゴジラと戦った(まあ原子力の恐ろしさを象徴していたはずのゴジラも、けっきょく善玉と成り果てたが)。成虫以上にわれわれを惹きつけたのが幼虫モスラである。卵から孵り、なぜか甲高い声で鳴き、さらに糸を吐いて東京タワーに繭をかける。
おそらく日本人の感性にはすでにこの瞬間から、オカイコさまとしてのイメージが喚起されていて、モスラにけっして悪い感情は抱かなかっただろう。蚕は古より日本にとって最も有用な昆虫であり、大事にされてきた存在だからだ(私の住んでいる岩手県の遠野地方は「オシラサマ」信仰の盛んだった地であるが、「オシラサマ」の本質がなんであるか特定しがたいものの、そのひとつは蚕のイメージであろうとされている。じじつオシラサマは蚕の守護神なのだ)。
モスラに話を戻そう。その母性が強調されていたということだ。小美人が歌ってモスラをなだめるなどという設定も含め、モスラには女性的イメージが反映している。そして、繭〜蚕〜絹という連想からしても、生糸作り、機織りは女性たちの仕事であり、その生産物である絹織物が必ずしも女性だけのものではないにせよ、けっして男性的なイメージに収束するものではないだろう。
モスラ対ゴジラでは母親モスラを倒された双子の幼虫がゴジラを倒すという、「母もの」プラス「兄弟による仇討ち」という日本人好みのイメージが横溢している。まるで歌舞伎の(曽我兄弟の仇討ちを下敷きにした)《助六》なのである。
いずれ、魔物としてのモスラは強い。そしてそれは女性、母性の強さを象徴していた。
さて、男性側からの虫好きの弁護をしようと思っているうちに、昆虫の気持ち悪さと、昆虫の女性への親和性を書いてしまうはめになった。もう少し女性の視点で続けてみたい。
前述したように女性は虫の概念を拡大してしまうが、いっぽうで「それでいいのか」といいたくなるような態度もみせる。女性は節足動物、甲殻類が好きなのだ。特にエビ、カニ、シャコが。
これら水棲節足動物は皆「むしへん」の生き物だ。蝦、蟹、蝦蛄という具合に。私の町にはフジツボを食べさせる店がある。食用になるのは、あの海辺の岩場にびっしりいる貝のようなあれの、直径数センチ以上のでかい奴である。茹でて中身を食べるのだが、じつは節足動物甲殻類なのである。だから味が蝦、蟹にどこか似ており、なかなかの珍味ではある。ヤドカリは食べられないと思うだろうが、タラバガニは実はヤドカリの仲間である。
女性はとにかく、蝦、蟹が大好きだ。男性でも好きだろうが程度が違うように思う(偏見かもしれないが)。私はときおり、「それって虫っぽくない?」と言うがまったく気にせず、蟹でも蝦でもミソをちゅうちゅう吸い、鋏の中まで肉をほじっている。そこまでやるとしばらくは指から匂いがとれない。
6.おはなはん
知人の女性画家がいる。この人は渡米して大学で造園学を学んだという。そのせいもあってモチーフに植物が多い。彼女の描く植物はまるで肉体のようでさえある。画風はジョージア・オキーフを思わせるところがあり、優れた画家だと思う。が、この方、虫がまったく駄目である。虫の話題を出しただけで眉根をひそめる。一種類の植物を最低三種類の昆虫が食べるという。さらには受粉を昆虫の媒介によっておこなう植物が多いのは誰でも知っている。こう考えれば、植物と昆虫の関係は不即不離なわけで、植物しか愛さないのは片手落ちではないかと思うのだが。
女性には植物愛好家がたしかに多い。花を愛でるというのはいかにも女性的であり、髪や衣服にも花を飾り、その布地にも花が描かれている。持ちもの、小物にも花のデザイン。名前でも花、華などを用いるのはまったく普通のことだ。女性の美しさを喩えるのに「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」という成句もあるほどだ。だが、女性美を虫に喩えるのはかなり勇気がいる(*)。
こういうことを書くのは多少ためらわれるのだが、ええい、ままよ。
「花は生殖器」である。これは誰でも知っている事実であり、誰もが口にしないことだ。それを語るのは現行の社会制度を脅かすこと、つまりタブーなのだ。あるいは、もっとくだけた場でそれを語れば「下ネタ」となる。タブーは共有されているがゆえに「笑い」のコンテクストともなる。
エイズで死んだ写真家、ロバート・メイプルソープの花の写真は素晴らしい。彼の作品を評して「花は性器のように、性器は花のように写される」という言があった。まったく同感である。彼は生殖器としての花を、そして生殖器の美をみごとに形象化した。
それにしてもなぜ、花が儀礼に使われるのか。花束贈呈、リース、花輪、勲章や家紋、紋章も花がデザイン化されている(国花というのもあるし、国鳥だってある。日本でもオオムラサキという国蝶もあるのだが知名度は低い)。ネアンデルタール人の化石のかたわらには花を散らしたと思われる花粉の化石が見つかった。人類は初源から、個体の死にさいして、それを葬儀という形式に高めるのに花を用いた。
人類にとって「花」とはなんだろうか。それは「生と死の両者をつなぐ象徴」ではなかったか。花が咲けば、実を結び、そして枯れる。しかしそれは輪廻であり、けっして枯れない花はなく、枯れない花は結実しない。
ウラル民話の「石の花」は永遠に咲き誇るが、それは最初から死んでいるからだ(プロコフィエフのバレエ音楽に同名の作品がある。この作曲時点で彼は死を意識していたであろう。それにアントニオ・カルロス・ジョビンの歌曲にも《ストーンフラワー》という名曲がある。私は中学のとき、サンタナの演奏ですっかり好きになった。ああ、音楽ネタにもってこれてよかった)。
私は以前から、絵画や写真の対象には花がよく選ばれるのに、彫刻にはなぜないのかと思っていた。彫刻では人物や動物の躍動感や存在感が要求されるようだ。おそらく、彫刻で植物を作ることは「模す」ことに過ぎず、それは硬化した生としての死をイメージさせるからではなかろうか。
ベルニーニは恐るべき繊細さで、月桂樹に変容するダフネを大理石から彫り上げているが、この逸話もつまり一種の死への移行である。
女性の美しさを讃えるのも「絵から抜け出てきたように」というのは構わないが「彫刻のように」とか、あるいは「ミロのビーナスのように」「ベルニーニのダフネのように」美しいとはほとんどいわない。それはあたかも「あなたは死んだもののように美しい」といわんばかりなのだ。そして「花のように美しい」というならば、それはまさしく「命短し恋せよ乙女、赤き唇あせぬ間に」という女性美のエフェメラルな性質をいい当てている(**)。(この項さらに続く)
* 女性美を虫に喩えた例はないわけではない。「蛾眉」という言葉がある。これは中国で眉の形の理想を述べたものだが、蛾の触角のような、という意味だ。中国の古人はよくそんなものを観察していたものだと思う。これは細かい櫛のような形をしていて、蝶とはまったく異なり、蝶蛾の区別のポイントのひとつとされている。また「夜の蝶」なる言葉がある。説明は要しないが、なにかそそられるものがある響きだ。彼女らの鱗粉とフェロモンはオスたちを惑わす。それにしても最近のキャバ嬢たちのヘアスタイルを見るとなぜか蜂や蟻の腹部を連想してしまうのだ。
** 最近、リザーヴド・フラワーという、数カ月以上、生き生きした花の盛りを保存した贈りものが流行っている。これは人体でおこなえばプラスティネーションということになる。昨年、私の知るかぎりでは初めての国内巡回展があり、各地で批判や論議の対象になってしまった。最初の展示はもう十年以上前で上野の博物館でおこなわれたが、開館以来の入場者になったというだけで、倫理上の疑念は出なかったのだが。この問題、いずれ別の機会に追究するつもりである。
[onnyk/22, Jul. 2009]
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