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2009/08/08

音楽非武装地帯 by onnyk[012]虫めづる姫君(その4)

 しかし、まだ話は終われない。
 私は男性であり、それは息子であることに他ならない。作家フィリップ・ソレルスの妻で、ラカン派の論客ジュリア・クリステヴァによれば、母/息子関係において、母は「拒否すべきもの、否定すべきもの」あるいはもっと端的に「おぞましきもの」、すなわちアブジェとみなされなければ、息子は主体として成立できないのだという。ここで母=女性は、地母神(ガイア、ゲー)の変容させられた怪物メデューサであり、恐るべき存在でありすべてを飲み込む空間=コーラである。なるほど日本でも「お袋さん」という。あるいは「歯の生えたヴァギナ」なのかもしれない(*)。
 飯島吉晴は「生命を司る神は異界と現世の媒介者として、暗く、黒く、醜い多産的な地母神が典型である。それは福をもたらすと同時に残虐であり、尊厳と恐怖の対象であった」と、その二面性を述べている。
 二面性という意味で付記しておけば、古代エジプトの宗教における聖なる存在のひとつにスカラベがある。ファーブル昆虫記でも有名な、タマオシコガネの類である。動物の糞を丁寧に球形にまるめ、後肢で転がしながら巣に運ぶ。その様が、あたかも太陽を運ぶ神に喩えられ、神聖視されたのだ。沈んでも冥界を通って復活する太陽はそのまま死と生を現した。それ助ける生き物としてスカラベは宝石により造形されたのである。
 また古代中国では翡翠で作った蝉の像を死者の口にくわえさせて埋葬した。それは地中から現れて羽化する蝉を、復活の象徴としてとらえた中国人の死生観を象徴したオブジェ=呪具であった。

 母=女性の崇高さはそのまま恐ろしさでもある。女性は出産する存在である。出産(また月経)に穢れがあると考える種族は普遍的ではないが多い。これは血を流すことへの忌避であろう。
 また、生まれたての子供はまだ人間ではない。かつて日本でも「七歳までは子供は神様」といわれた。飯島吉晴は「厠考」(『竈神と厠神』所収)において、日本の産育儀礼について詳細な分析をしているが、それによれば生まれたての赤子は塵芥や糞便と同等にみなされており、厠への雪隠参りによってこの社会への参入を果たすと記述している。
 アマゾンの奥地に住むヤノマミ族においては、新生児はまだ精霊に属するものである。彼らはその精霊を森に返してしまうこともある(一種の人口制限だ)。子供がまだ人間ではないというのは、近代以前の世界に共通した認識である。
 子供に名前をつけない、子供の葬式・埋葬を異なる方法でおこなう、子供に通過儀礼を課す、子供の身体になんらかの変形(刺青、歯を削る、割礼)を加える、あるいは洗礼する(死を通じて浄化するシミュレーションだろうか)等々、人類は「恐るべきところ」からやってきた存在を、なんとかして「人間」(という語は多くの場合部族の名前そのものである)の仲間にしようと努力してきたのである。
 「産」という文字の由来がすでにそれを示しており、赤子の額にXを描き、呪禁とする。「産」の上の部分は「文」であり、「文」という文字はまた死者を送るさいに、その胸に朱で入れ墨をしたことに由来する。人間の仲間に入れるとき、そしてまたそこから送り出すとき、儀礼は記号を必要とした。
 祟る神、荒ぶる神としての女性という観念は、古代中国でもあった。白川静によれば、最も祟る、恐るべき霊は家長の母やその祖先のそれである。その霊は、嫁とその子に祟るという信仰があったため、中国の祖先供養儀礼はそれをなだめる、祓うことを主におこなっていたという。ここでも女性は死んで神になり、しかも儀礼を通してしかなだめることのできない恐ろしい存在となっていたのである。
 クリステヴァは著書『中国の女たち』でこのような儒教的イデオロギーに抗する女性の立場を擁護しているが、けっきょく彼女が言及している「アブジェ」の概念は、いかに記号論やらマルクス主義で追い払おうと必ず戻ってくることを示しているのではないか。
 われわれは死すべき存在であり、それはわれわれが「女から生まれるもの」である以上避けられないのである(と、ここでクセナキスの《モルシマ・アモルシマ》〔=死すべきもの・不死のもの〕を聴いていただくというのはどうでしょうか?)。

9.ヤーヌスとしての花・虫

 われわれを囲繞する日本の文化は中国文化の影響を大きく受けている。それは仏教流入以前から、おそらくは道教的な観念の体系が古代日本人の抽象的な思考を支配していったと想像できる。
 そのひとつの思考ツールが「気」という語である。
 日本では昔から「むし」を、気の一呼称として用いている。いや、じつはかつてわれわれの祖先は精神の働きを「むし」という語に当て、のちにそれを「気」と同一視したのであろう。
 「むしのいどころがわるい」「むしがすかない」「むしのしらせ」「かんのむし」「はらのむしがおさまらない」などなど(なぜか、あまりポジティヴではない)。まだあるだろう。つまり人間の精神の働きと、地に満ちている霊は、同一の観念「むし」で表現され、じっさいの昆虫や「むしへん」存在ではない。しかしやはり、それでも現実に蠢く存在として体の内外で共鳴しているのだ。
 庚申の夜に寝ずの宴をするのは、身体に棲む「三尸の蟲(さんしのむし)」が天帝に、その人の悪行を報告にいくのを防ぐからだという(干支という数え方、そして天帝や「三尸の蟲」という考えも中国由来である)。古書にみるこの三匹の蟲たちの姿は、昆虫にも「むしへん」の連中にも似ていない。強いていえば精霊、小さな神様といったところだろうか。
 彼らはわれわれの体の中につねに住んでいる「寄生虫」なのだ。そして彼らがわれわれの寿命を決めているともいえる。自身ではわれわれに危害を加えないという意味では潜在化している。われわれが悪行をしなくなれば、彼らはお役御免、レゾンデートルは消える。だが彼らがいなければわれわれは悪行し放題になるかもしれない。しかしまたわれわれの生きるモチベーションや行動力は「悪行」の想像と実践によって支えられていないか。なにしろ何が善で、何が悪なのか、この倫理観というやつはつねに拡張され続けているのだから。というわけでわれわれはこの厄介な寄生虫と共生しているのだ。
 ミトコンドリアはかつて別の生命体で、真核生物が誕生したときに細胞内に寄生したといわれる。「三尸の蟲」は、あたかも精神のミトコンドリアだ(というところで、山下洋輔トリオの名曲《ミトコンドリア》をお聴きください! ふう〜)。

 私の住む町、盛岡には昆虫について素晴らしいエッセイを書いた「虫めづる姫」がいる。『虫のつぶやき聞こえたよ』で日本エッセイストクラブ賞を受賞された澤口たまみさんである。この本を読んで、あるいは彼女のブログなどを通じて、虫に寛容になったとか、虫好きになったなどという女性が多いようだ。また同時に彼女は育児や結婚などについても書いており、女性に共感される要素は多い。だから私が最初に「女性はなぜ、虫を嫌うのか」と掲げたのはけっして普遍的な事実ではないのだ。歴史の中で、女性と「むしへん」存在は、しだいに引き離されてきたのではないか。
 むしろこういうべきだろう。「女性が虫を嫌うようになった世界」は地母神の明るい面ばかりを賞賛する世界になってしまったということだ。この明るい世界を象徴するのが「花」ならば、暗き面を象徴するもの、そこからやってくるものこそが「虫」だ。(この項、やっと終わり)

* コーラは、アフリカの竪琴の一種の名でもあるが、その由来はおそらく下部にある大きな共鳴体の空間であろう。これはカボチャのような大きな実をくり抜いて作ってある。アフリカの楽器は、多くが共鳴体を持ち、楽器をならすことはそこに神を呼ぶことだという。その空間をコーラと呼ぶならこれはまた興味深いことだ(と、ここでトゥマニ・ジャバテの独奏するコーラを聴けばなおよいでしょう)。
 アレックス・ヘイリーのベストセラー小説『ルーツ』には、奴隷時代を知っている祖父がギターを指して「コー」と呼んだことが祖先探しの鍵になるくだりがある。それはコーラのことだったのだ。

[onnyk/22, Jul. 2009]

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