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2009/08/24

白石和良の「闘う古楽&トラッド乱聴記」043──親鸞ズ[2009/08/14]

◆親鸞ズ PRESENTS 古楽コンサート
2009年8月14日(金)19:00 東京・三軒茶屋:GRAPE FRUIT MOON

◎出演(順不同)
 武久源造(ピアノ、キーボード、トイ・ピアノ、イタリアン・ヴァージナル、歌ほか)
 ダ・ネーモー:
  辻康介(ヴォーカル、パーカッション)
  近藤治夫(バグパイプ、クルムホルンほか各種古楽器)
  福島久雄(アコースティック・ギター)
  立岩潤三(ダルブッカ、カホーンほか各種パーカッション)
 リズム・アンド・バロック:
  飯塚直子(リコーダー、ダルブッカほか各種パーカッション、歌)
  寺村朋子(イタリアン・ヴァージナル、歌)

◎使用楽器
 ピアノ:
  ニーマイヤー(カナダ):アップライト型
  イタリアン・ヴァージナル:久保田(日本)
  キーボード:カシオ Privia

◎曲目
 [ステージ0]:親鸞ズ(全員)
   カーサ・ロサーダ(近藤治夫)
 [ステージ1]:リズム・アンド・バロック with 武久源造
   1.スパニョレッタ
   2.フォリア(A.コレッリ)
   3.ソナタ(D.カステッロ)
   4.ルーマニア民族舞踊組曲(B. バルトーク)よりの4曲
   5.キュピ(J.-P. ラモー)
   6.チューニング・ソング[リズム・アンド・バロック]
   7.グリーン・スリーヴス
   8.ハッピー・バースディ
 [ステージ2]:ダ・ネーモー with 武久源造
   1.帰れソレントへ
   2.カーサ・ドール(近藤治夫)
   3.もてもてサラセン人
   4.ギター・ソロ〜人生のパッサカリア
   5.お坊さん(作曲:辻康介)
   6.カーサ・ヴェルデ(近藤治夫)
   7.恋人はトルコ人(C. モンテヴェルディ)
   8.きれいなねえちゃんよ(V. カレスターニ)
 [ステージ3]:武久源造 with 福島久雄・立岩潤三
   1.涙のパヴァーヌ(J. ダウランド)
   2.即興曲(F. シューベルト)[以上武久ソロ]
   3.[3人によるセッション]
 [ステージ4]:親鸞ズ[全員]
   1.ファイティング・ホワイト・ストーン(武久源造)
   2.マザー・グースより:ピーター、ピーター、かぼちゃが大好き
     (作曲:武久源造、以下同)
   3.マザー・グースより:チック・タック・ボーン
   4.マザー・グースより:あつあつの好きなひと
   5.マザー・グースより:大事な大事な6ペンス
   6.マザー・グースより:なんにも持たない婆さんのうた
   7.奴らの足音のバラード
   8.マザー・グースより:そうできるならそうしたい
   9.チック・タック・ボーン[アンコール]
    〜流れ(福島久雄)
    〜カーサ・ロサーダ(近藤治夫)
  ※曲名は筆者の聞き書きです。

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2009/08/10

古楽特派員テラニシ016|バッハフェスト2009(ライプツィヒ)

Bach2009_01[写真1]ライプツィヒの中心、マルクト広場に面する旧市庁舎にもバッハフェストの旗がひるがえる。撮影:寺西肇

 大作曲家、ヨハン・セバスティアン・バッハゆかりの古都ライプツィヒを舞台に、彼の作品の紹介と研究成果の発表を目的に、バッハの研究機関であるバッハアルヒーフ・ライプツィヒが主宰する音楽祭「バッハフェスト2009」が、去る6月11〜21日、11日間にわたって開かれた。プログラムは、関連行事も含めれば100以上が用意された。今年のテーマは「バッハ、メンデルスゾーン、そしてレーガー」。バッハの再発見に貢献し、今年がちょうど生誕200年にあたるフェリックス・メンデルスゾーン、そして、ライプツィヒ音楽院の教授を務め、対位法などバッハの語法に大きなイマジネーションを受けたマックス・レーガー。2人の作曲家を通じて、バッハが後世に与えた影響を探ってゆく試みだ。

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2009/08/08

音楽非武装地帯 by onnyk[012]虫めづる姫君(その4)

 しかし、まだ話は終われない。
 私は男性であり、それは息子であることに他ならない。作家フィリップ・ソレルスの妻で、ラカン派の論客ジュリア・クリステヴァによれば、母/息子関係において、母は「拒否すべきもの、否定すべきもの」あるいはもっと端的に「おぞましきもの」、すなわちアブジェとみなされなければ、息子は主体として成立できないのだという。ここで母=女性は、地母神(ガイア、ゲー)の変容させられた怪物メデューサであり、恐るべき存在でありすべてを飲み込む空間=コーラである。なるほど日本でも「お袋さん」という。あるいは「歯の生えたヴァギナ」なのかもしれない(*)。
 飯島吉晴は「生命を司る神は異界と現世の媒介者として、暗く、黒く、醜い多産的な地母神が典型である。それは福をもたらすと同時に残虐であり、尊厳と恐怖の対象であった」と、その二面性を述べている。
 二面性という意味で付記しておけば、古代エジプトの宗教における聖なる存在のひとつにスカラベがある。ファーブル昆虫記でも有名な、タマオシコガネの類である。動物の糞を丁寧に球形にまるめ、後肢で転がしながら巣に運ぶ。その様が、あたかも太陽を運ぶ神に喩えられ、神聖視されたのだ。沈んでも冥界を通って復活する太陽はそのまま死と生を現した。それ助ける生き物としてスカラベは宝石により造形されたのである。
 また古代中国では翡翠で作った蝉の像を死者の口にくわえさせて埋葬した。それは地中から現れて羽化する蝉を、復活の象徴としてとらえた中国人の死生観を象徴したオブジェ=呪具であった。

 母=女性の崇高さはそのまま恐ろしさでもある。女性は出産する存在である。出産(また月経)に穢れがあると考える種族は普遍的ではないが多い。これは血を流すことへの忌避であろう。
 また、生まれたての子供はまだ人間ではない。かつて日本でも「七歳までは子供は神様」といわれた。飯島吉晴は「厠考」(『竈神と厠神』所収)において、日本の産育儀礼について詳細な分析をしているが、それによれば生まれたての赤子は塵芥や糞便と同等にみなされており、厠への雪隠参りによってこの社会への参入を果たすと記述している。
 アマゾンの奥地に住むヤノマミ族においては、新生児はまだ精霊に属するものである。彼らはその精霊を森に返してしまうこともある(一種の人口制限だ)。子供がまだ人間ではないというのは、近代以前の世界に共通した認識である。
 子供に名前をつけない、子供の葬式・埋葬を異なる方法でおこなう、子供に通過儀礼を課す、子供の身体になんらかの変形(刺青、歯を削る、割礼)を加える、あるいは洗礼する(死を通じて浄化するシミュレーションだろうか)等々、人類は「恐るべきところ」からやってきた存在を、なんとかして「人間」(という語は多くの場合部族の名前そのものである)の仲間にしようと努力してきたのである。
 「産」という文字の由来がすでにそれを示しており、赤子の額にXを描き、呪禁とする。「産」の上の部分は「文」であり、「文」という文字はまた死者を送るさいに、その胸に朱で入れ墨をしたことに由来する。人間の仲間に入れるとき、そしてまたそこから送り出すとき、儀礼は記号を必要とした。
 祟る神、荒ぶる神としての女性という観念は、古代中国でもあった。白川静によれば、最も祟る、恐るべき霊は家長の母やその祖先のそれである。その霊は、嫁とその子に祟るという信仰があったため、中国の祖先供養儀礼はそれをなだめる、祓うことを主におこなっていたという。ここでも女性は死んで神になり、しかも儀礼を通してしかなだめることのできない恐ろしい存在となっていたのである。
 クリステヴァは著書『中国の女たち』でこのような儒教的イデオロギーに抗する女性の立場を擁護しているが、けっきょく彼女が言及している「アブジェ」の概念は、いかに記号論やらマルクス主義で追い払おうと必ず戻ってくることを示しているのではないか。
 われわれは死すべき存在であり、それはわれわれが「女から生まれるもの」である以上避けられないのである(と、ここでクセナキスの《モルシマ・アモルシマ》〔=死すべきもの・不死のもの〕を聴いていただくというのはどうでしょうか?)。

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2009/08/06

音楽非武装地帯 by onnyk[011]虫めづる姫君(その3)

7.花と蝶

 また擬態の話になるが、虫にそっくりな花、花や葉や枝にそっくりな虫がいる。これはどうしてだろうか。あまりにも当たり前すぎる疑問には答えがたいものだ。あるいは多種多様な答えが返ってきて混乱する。擬態という現象は否定できないが、あれほどみごとな模倣が、たんに適者生存のダーウィニズムだけで完成されてきたとは信じがたいと思うのは私だけではないだろう。しかしここで目的論を導入しようとは思わない。そっちに議論をもっていかないようにするべきだ(じゃないとブログではなくなる。いやもう、この長さではブログじゃないけど)。カイヨワとかバタイユを参考にしてほしい。
 切り離して別のカテゴリーに入れようとすれば、なぜその境界を裏切る(「越える」のではなく)ような形象が存在するのかという例はいくつもある。これは人が考案するカテゴリー化の不完全性を示している。

 なぜ、このように中間的な、移行的な、不分明な、曖昧な、不可思議な存在があるのだろうか。
 私がいいたいのは、「植物と昆虫は対として存在している」ということだ。
 森進一の歌った演歌「花が女か男が蝶か」という《花と蝶》はまさしく、この事情を言い当てている。
 男女という性別もじつは曖昧な審級ではないのか。生物学的、社会的な観点からトランスジェンダーの人々が主張を始めている。彼らは花である蝶、蝶である花なのかもしれない。

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2009/08/04

音楽非武装地帯 by onnyk[010]虫めづる姫君(その2)

4.虫の卵がびっしりと……

 毎年、庭のサンショウにはアゲハが産卵してゆくわけだが、この「産みつけていく」という性質も嫌われる要素のひとつだ。
 産みっぱなし、というのはひじょうに非人間的にみえるようだ。だから最近の研究で恐竜も卵が孵るまでそばにいたとか、子供の世話をしていたなどとわかると俄然、共感されるのである。魚でも稚魚を口に入れて世話するとか、蜂が翅で風を送って巣の温度を保つとか、蟻が幼虫の世話をかいがいしくしている様はきわめて好意的に報道される。逆に人間が子供を放置したりしたら、それこそ悪逆非道とされる。まあ、コンラート・ローレンツにいわせれば「人間的と思われるような行動は、ほとんど動物に見いだせる」ということである。
 いずれ、思いもよらないところに「虫の卵」が見つかるし、ときにはそれが孵って幼虫がごそごそしているというのが「虫嫌い」にはたまらないのである。昔は小豆や米や麦などの保管場所にいろんな虫が発生した。特に嫌われるのは、大量にごちゃごちゃと幼虫が発生する様である。
 聞いた話だが、冬にカマキリの卵、というか卵鞘を野原で見つけて持ち帰った。あろうことか机の中に入れて忘れてしまったという。春のある日、引き出しを開けたら、いっせいに孵ったカマキリの幼虫がわああっと出てきたのだそうである。まあこれは虫好きでもびびる逸話だ。
 私の住んでいるあたりでは、ときおりクスサンやマイマイガが大発生する。コンビニの軒下の誘蛾灯の下には文字どおり山になって、死にかけがバサバサ動いていたりする。またそれを食べにくる雀たちもうるさい。雀は翅だけは残してゆくのでそのあたりが翅だらけになる。蛾の連中はなぜか死ぬまぎわになると「もはやこれまで。わが存在の証、いまここに」とばかり、いきなり産卵する。かくして町のあちこちの壁や窓に卵がびっしり産みつけられているのをときおり見かける。やはり気持ちのいいものではない。
 最近はあまり聞かないがアメリカシロヒトリという蛾も大発生する輩だ。これは街路樹などに蜘蛛の巣のような白いネットをかけて、その中に幼虫がうじゃうじゃといる。これもどうも好きな風景ではない。
 虫たちの「うじゃうじゃ、大発生」という気持ち悪さを利用したのが、映画『スターシップ・トゥルーパーズ』だ。人類は虫型宇宙人と交戦中である。アラモ砦とインディアンの包囲攻撃をもじったのだろうが、惑星上の要塞で人間の孤立した部隊が、怒濤のように押し寄せる虫たちの攻撃を受けるシーンがある。この虫のデザインが秀逸(かつ醜悪)で、カマドウマを凶悪にしたようなスタイルである。殺しても殺しても次々に現れ、ついに人間の部隊は全滅する。コオロギに似ているくせに鳴きもしないカマドウマは、なぜか気持ち悪い昆虫である。よく足がとれるのもこいつらの特徴だ。
 昆虫的気持ち悪さの映画として、やはり『エイリアン』にもその要素がたくさんあった。まず、暗いところにびっしりと卵を産みつけてある、そして人の体に幼虫が入り込む、人は中から食い荒らされて、そこから幼虫が飛び出す。これはジガバチなどの狩りをする蜂類にみられる行動を模しているだろう。卵を芋虫に産みつけ、孵化した幼虫は動けないままの宿主を食い荒らすのである。続編では女王エイリアンが出てきて産卵するシーンもある。われわれは一般に胎内に異物が入ること、とくにそれが「他の生命」であることに恐怖を抱く。これについては後述する
 病原体のベクター(媒介者)としての虫はたくさんある。蚊、サシガメなどは直接体にそれを刺しこんでくるのだからたまらない。蚊の媒介する病原体は数あるが、サシガメの媒介する「リーシュマニア」という病気はご存知だろうか。知らない人は「目黒寄生虫館」にでも行ってみるといい。ゴキブリについては、その体が不潔であるとされたが、感染性疾患の媒介についてはあまり大きな役割ではないらしい。ハエはゴキブリと同様の不潔さがあるけれど、種類によっては刺す。ウマバエとかツェツェバエである。後者は「眠り病」を媒介する。
 異なる生命体としての病原性微生物と寄生虫が身体に入り込むことは、自他の区別を失うこと、自己同一性の喪失への恐怖なのかもしれない。これは社会的にも、そうみなされる傾向があり、特にファシズムが発展するさいには、異民族や移民の排撃を主張する純血主義を訴えることが強い契機となるのは歴史が証明している。日本も多民族国家としての道を歩まなければならない岐路に立っている。多様性こそが生存の可能性を高めるのは、理論的にも経験的にも正当なのだから。
 また話題がそれそうだ。いずれ寄生虫は昆虫ではない。たしかに古来からその種の生物もわれわれはムシと呼んできた。清盛入道が厠から出てきて「むしが一斗も出た」と大笑いするくだりが平家物語にある。目黒寄生虫館にはいわゆる寄生虫の類の他に病原体を媒介する昆虫類も展示してある。

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2009/08/02

音楽非武装地帯 by onnyk[009]虫めづる姫君(その1)

1.ギャーッ、ゴキブリ!

 今回のテーマはずばり「女性はなぜ、虫を嫌うのか」だ。
 女性は、どういう状況であれ、大きさに関係なく虫がかさかさっと動いたり、ぷ〜んとよぎると「ぎゃーっ、やだやだ」だの「あ゛〜っ、虫、虫っ」だの妙な声をあげ、逃げ回る。
 そういう場合、男性は、なぜか虫を探して捕獲するか殺そうとする。まあ、いいとこ見せようという下心もあろうが、どっちかというと「子供の頃によく虫をとって遊んだ」という話をしたり、「虫が好きだ」という人も多い。私もこの例にもれない虫好きである。
 女性の中には虫を嫌うだけでなく恐れる人もいる。嫌うのと怖がるのはレベルが違うだけだろう。いろんな人がいて、「虫は嫌だが爬虫類は平気だ」とか「爬虫類も両生類もいやだ」などという人もある。あとでも述べるが、もはや虫の中に爬虫類、両生類が一緒くたにされているのである。「嫌いな存在」として一括り。まさしく蛇蝎のごとくというわけだ。

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