戸ノ下達也の「近代ニッポン音楽雑記」009|合唱文化の現在──《筑後川》そして《土の歌》
私たちの日常生活には、ごく自然に音楽が寄りそっている。そして音楽はメディアや情報機器の発達により、いっそう細分化し多様化している。それでもたとえば吹奏楽や合唱、軽音楽バンドなどは、年齢層を問わず、また一般団体や学生サークルなどの演奏者が主たる担い手となって、愛好者の拡大、新しい作品創作、コンクールによる技術レヴェル向上が継続し、日本の音楽文化の牽引役となっている。私自身は、音楽の日常化や大衆化の観点で無視できないのが合唱音楽であると認識しているが、あらためてこのような合唱文化の現在について考える機会となったのが、3月3日に開催された東京オペラシティウィークデイ・ティータイム・コンサート10「合唱とオーケストラの楽しみ〜日本合唱名曲選〜」であった。
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合唱音楽は、昭和期になって国民音楽協会が主催したコンクール、アマチュア合唱団や大学サークルなど活動が徐々に本格化し、さらに十五年戦争期になると戦時期特有の国民運動や職場の厚生運動での合唱の活用など、従来にない新たな動きがみられた。こうした戦前から戦中の合唱の萌芽が、戦後復興期から高度成長にいたる過程で開花し、さらにうたごえ運動や労働運動、安保改定反対運動といった戦後特有の運動の影響も受けつつ大衆化し浸透していった。そして高度成長以降、プロ合唱団の発足と作品委嘱や演奏活動という画期的なとりくみもあいまって、合唱音楽の活性化がなされていく。合唱音楽へのアプローチでは、義務教育での音楽教育や学校行事としての合唱祭、高校や大学のサークル活動なども重視すべきであろう。
トウキョウ・カンタート2009コンサート「競演合唱祭からみんなの合唱へ…」の台本・構成を担当していらい、この問題をしっかりと整理しなければと思っている私は、日本の近代から現代にいたる歴史に合唱音楽を位置づける作業を至上命題として、何人かのご助力をいただきながら書籍にまとめている最中であるが、演奏会はこうした問題意識をあらためてみつめなおすよいきっかけになった。いやむしろ、宿題や課題がさらに増えたともいえよう。
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武満徹の《混声合唱のためのうた》からの4曲に始まり、木下牧子の混声合唱とオーケストラのための《鴎》、團伊玖麿の混声合唱とオーケストラのための《筑後川》、佐藤眞のカンタータ《土の歌》というプログラムは、わが国の合唱音楽のいとなみを再考するにふさわしい珠玉の企画であった。
山田和樹の指揮は、緻密に読みこんだスコアを、繊細にていねいにロマンティックに演奏するもので、東京混声合唱団の安定感ある合唱は、東京交響楽団のまとまりのある管弦楽とともに、これ以上望めない音楽を紡ぎだした。オペラシティコンサートホールが、懊悩や苦しみ、歓喜や幸福がないまぜとなった日常生活のなかで、われを忘れ、自然にひとすじのうれし涙がこぼれてくる、そんな不思議な空間と化していた。
素晴らしいハーモニーのなかに読みこまれた歌詞、それを豊かに無理なく表現できるのは東京混声合唱団以外にありえないと思わせるコーラス。たとえば、《混声合唱のためのうた》では、どの曲でも絶妙な弱音と武満色のきれいなハーモニーが聞こえる。《筑後川》では「祭りよ川を呼び起こせ……」「祭りよ愛を呼び起こせ……」とパートが旋律をリレーしていく〈川の祭〉で、主旋律のパートが鮮明に浮かびあがり、「筑後川、筑後川その終曲、ああ」と歌いあげる〈河口〉の終盤での計算されつくしたクレッシェンド。《土の歌》では〈天地の怒り〉の鬼気せまる演奏に対する〈地上の祈り〉の優しく繊細なpp、そして〈大地讃頌〉では大地をしっかりとふみしめる絶妙なテンポ、〈しずかな大地を〉のpp、そして冷静ながらも気迫のこもったフィナーレ。どれも山田の計算されつくした緻密な構成による指揮を、東混が自然体で演奏した結果であるが、多くの人々に歌いこまれたこれらの作品を、違和感なくそれでいて感動の渦に巻きこむ演奏ができるのは、この演奏者たちをおいて考えられない、と思わせる演奏であった。
なにより「合唱組曲の古典」ともいえる《筑後川》とカンタータ《土の歌》という、半世紀近くも歌い継がれている楽曲を管弦楽版で全曲演奏することは、とりもなおさずわが国の音楽文化の歩みを再考することに直結する。あらためて東京混声合唱団が、自団のコンダクター・イン・レジデンスである山田の指揮、東京交響楽団の演奏で「合唱組曲の古典」を再演したことの意義を問いなおしたい。〈河口〉や〈大地讃頌〉というそれぞれの組曲の終曲が、いまなお学校などで合唱され歌い継がれている事実をどのように考えるべきか。いっぽうで、この終曲のみがひとり歩きし、組曲として創作されたほんらいの意義が薄れつつあることへの危惧、「合唱組曲の古典」を軽視し新しいもののみに価値観をみいだすような時代相など、多くのことを考えさせられる。このような状況にまっこうから立ち向かい、再考させ、警鐘をならした演奏が、今回の山田と東混・東響の取り組みであったのではなかろうか。
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当日のアンコール〈大地讃頌〉の冒頭、山田は合唱団に向けて振り下ろした指揮棒を、すぐに振り返って客席に向けた。その棒にあわせて会場は自然に歌声に包まれ、この画期的な演奏会は幕を閉じた。私の耳にはいまなお演奏された楽曲が静かに鳴り響いている。
[戸ノ下達也]
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投稿: I need Assistance to Rewrite a Personal Experience Essay | 2016/12/30 17:09