音楽非武装地帯 by onnyk[012]虫めづる姫君(その4)
しかし、まだ話は終われない。
私は男性であり、それは息子であることに他ならない。作家フィリップ・ソレルスの妻で、ラカン派の論客ジュリア・クリステヴァによれば、母/息子関係において、母は「拒否すべきもの、否定すべきもの」あるいはもっと端的に「おぞましきもの」、すなわちアブジェとみなされなければ、息子は主体として成立できないのだという。ここで母=女性は、地母神(ガイア、ゲー)の変容させられた怪物メデューサであり、恐るべき存在でありすべてを飲み込む空間=コーラである。なるほど日本でも「お袋さん」という。あるいは「歯の生えたヴァギナ」なのかもしれない(*)。
飯島吉晴は「生命を司る神は異界と現世の媒介者として、暗く、黒く、醜い多産的な地母神が典型である。それは福をもたらすと同時に残虐であり、尊厳と恐怖の対象であった」と、その二面性を述べている。
二面性という意味で付記しておけば、古代エジプトの宗教における聖なる存在のひとつにスカラベがある。ファーブル昆虫記でも有名な、タマオシコガネの類である。動物の糞を丁寧に球形にまるめ、後肢で転がしながら巣に運ぶ。その様が、あたかも太陽を運ぶ神に喩えられ、神聖視されたのだ。沈んでも冥界を通って復活する太陽はそのまま死と生を現した。それ助ける生き物としてスカラベは宝石により造形されたのである。
また古代中国では翡翠で作った蝉の像を死者の口にくわえさせて埋葬した。それは地中から現れて羽化する蝉を、復活の象徴としてとらえた中国人の死生観を象徴したオブジェ=呪具であった。
母=女性の崇高さはそのまま恐ろしさでもある。女性は出産する存在である。出産(また月経)に穢れがあると考える種族は普遍的ではないが多い。これは血を流すことへの忌避であろう。
また、生まれたての子供はまだ人間ではない。かつて日本でも「七歳までは子供は神様」といわれた。飯島吉晴は「厠考」(『竈神と厠神』所収)において、日本の産育儀礼について詳細な分析をしているが、それによれば生まれたての赤子は塵芥や糞便と同等にみなされており、厠への雪隠参りによってこの社会への参入を果たすと記述している。
アマゾンの奥地に住むヤノマミ族においては、新生児はまだ精霊に属するものである。彼らはその精霊を森に返してしまうこともある(一種の人口制限だ)。子供がまだ人間ではないというのは、近代以前の世界に共通した認識である。
子供に名前をつけない、子供の葬式・埋葬を異なる方法でおこなう、子供に通過儀礼を課す、子供の身体になんらかの変形(刺青、歯を削る、割礼)を加える、あるいは洗礼する(死を通じて浄化するシミュレーションだろうか)等々、人類は「恐るべきところ」からやってきた存在を、なんとかして「人間」(という語は多くの場合部族の名前そのものである)の仲間にしようと努力してきたのである。
「産」という文字の由来がすでにそれを示しており、赤子の額にXを描き、呪禁とする。「産」の上の部分は「文」であり、「文」という文字はまた死者を送るさいに、その胸に朱で入れ墨をしたことに由来する。人間の仲間に入れるとき、そしてまたそこから送り出すとき、儀礼は記号を必要とした。
祟る神、荒ぶる神としての女性という観念は、古代中国でもあった。白川静によれば、最も祟る、恐るべき霊は家長の母やその祖先のそれである。その霊は、嫁とその子に祟るという信仰があったため、中国の祖先供養儀礼はそれをなだめる、祓うことを主におこなっていたという。ここでも女性は死んで神になり、しかも儀礼を通してしかなだめることのできない恐ろしい存在となっていたのである。
クリステヴァは著書『中国の女たち』でこのような儒教的イデオロギーに抗する女性の立場を擁護しているが、けっきょく彼女が言及している「アブジェ」の概念は、いかに記号論やらマルクス主義で追い払おうと必ず戻ってくることを示しているのではないか。
われわれは死すべき存在であり、それはわれわれが「女から生まれるもの」である以上避けられないのである(と、ここでクセナキスの《モルシマ・アモルシマ》〔=死すべきもの・不死のもの〕を聴いていただくというのはどうでしょうか?)。
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