2010/03/10

音楽非武装地帯 by onnyk[013]しきしまのやまとごころのフラメンコ

1.アイ〜、ホンド!

 岩手県盛岡市は、例年1月から2月にかけて厳冬期である。今年は最高気温がマイナス4〜5度という日が続いている。
 こんな盛岡にもフラメンコ教室が2つある。その両方の発表会を、2009年の12月から2月にかけて見ることができた。どちらがいいとか、技術的なこと、表現力、見せ方など、フラメンコに関する知識もろくにない私には批評めいたことを言うことはできない。しかし、パフォーマンスが充実していればいるほど、奇妙な感覚に陥る。
 もし日本民謡を愛好する団体がスペインの地方都市にあり、そこではスペイン人だけで、日本民謡と手踊りの発表会をやっているとしたら。あるいは、そこに日本からの歌手か、演奏家(三味線か尺八?)が招かれて現地の人々と楽しく「日本民謡」を演じているとしたら……。その光景を想像できるだろうか。
 どちらの教室の発表会も、同じホールで行われ、500ほどの座席は、ほぼ満席だった。この現象はいったい何を意味するのだろう。盛岡人はそんなにフラメンコが好きなのか?
 教室に通う女性たち(ほとんど女性である)に「なぜフラメンコをやっているか」と聞いても、私を満足させる答は返ってこないような気がする。たぶん「好きだから」「スペインに憧れて」「体を動かすことが好き」「表現することの楽しさ」「別な自分を発見できた」などなど……もしかしてこれはフラメンコじゃなくても同じことか。自分さがし? 自己発見?

 異文化発祥の事物に憧れる状況──これは音楽や芸能だけでなく、スポーツでも、料理、酒でも同様の事情があるのではないか。「日本には世界中の“文化事象”(の模倣)がある」とさえいえないか。
 仮に、音楽だけとりあげても、そう思われないだろうか。
 クラシックやジャズは、もはや異文化ということがかえって違和感を感じさせるほどだ。盛岡には全国大会で優勝したジャズ・コンボもある。盛岡のライヴ・バー「クロスロード」に出演しているジプシー・スウィングのカルテットはなかなかのものだ。隣の秋田県にはシタールの専門家もいる。
 中国地方のどこかの町にも、スティール・ドラム・アンサンブルをやっている人たちがいて、本場トリニダード・トバゴまで行って演奏している。中南米音楽をやる人たちなどは枚挙に暇がない。たぶんガムランもあるだろう。以前、芸能山城組はケチャもやっていたし、ブルガリアン・ヴォイスもやった。ホーミーをやる人たちも、巻上公一以外にもたくさんいる。馬頭琴もウードも、初めて生で聴いたのは日本人の演奏だった。私の友人は韓国のチャンゴ(杖鼓)を集団でやっている。クラブ系の若者たちは、ジャンベ(ジェンベなのかな)やディジュリドゥが好きだ。知人にはすごいカリンバ奏者がいるし、ツィンバロンのプロもいる。歴史を遡ればきりはないが、ひとつだけ書いておけば、雅楽だって輸入音楽だ。

 ほんとに日本人の好奇心は旺盛だ。日本全国どこでもちょっとした規模の町なら、各国料理の店、多国籍料理の店がある。世界各地の料理も酒もすべて消化してしまう我々。
 盛岡には、日本全国のスコッチ・マニアが巡礼に来るほどのコレクションを持つ「スコッチ・ハウス」というバーがある(先日、福山雅治が来たので話題になった)。これはあまりにも特殊に思えるけれど、実は日本人の趣味の広さという意味では典型的な例かもしれない(ついでにいえば盛岡には世界中のラム酒を置いているバーもある)。

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2009/08/08

音楽非武装地帯 by onnyk[012]虫めづる姫君(その4)

 しかし、まだ話は終われない。
 私は男性であり、それは息子であることに他ならない。作家フィリップ・ソレルスの妻で、ラカン派の論客ジュリア・クリステヴァによれば、母/息子関係において、母は「拒否すべきもの、否定すべきもの」あるいはもっと端的に「おぞましきもの」、すなわちアブジェとみなされなければ、息子は主体として成立できないのだという。ここで母=女性は、地母神(ガイア、ゲー)の変容させられた怪物メデューサであり、恐るべき存在でありすべてを飲み込む空間=コーラである。なるほど日本でも「お袋さん」という。あるいは「歯の生えたヴァギナ」なのかもしれない(*)。
 飯島吉晴は「生命を司る神は異界と現世の媒介者として、暗く、黒く、醜い多産的な地母神が典型である。それは福をもたらすと同時に残虐であり、尊厳と恐怖の対象であった」と、その二面性を述べている。
 二面性という意味で付記しておけば、古代エジプトの宗教における聖なる存在のひとつにスカラベがある。ファーブル昆虫記でも有名な、タマオシコガネの類である。動物の糞を丁寧に球形にまるめ、後肢で転がしながら巣に運ぶ。その様が、あたかも太陽を運ぶ神に喩えられ、神聖視されたのだ。沈んでも冥界を通って復活する太陽はそのまま死と生を現した。それ助ける生き物としてスカラベは宝石により造形されたのである。
 また古代中国では翡翠で作った蝉の像を死者の口にくわえさせて埋葬した。それは地中から現れて羽化する蝉を、復活の象徴としてとらえた中国人の死生観を象徴したオブジェ=呪具であった。

 母=女性の崇高さはそのまま恐ろしさでもある。女性は出産する存在である。出産(また月経)に穢れがあると考える種族は普遍的ではないが多い。これは血を流すことへの忌避であろう。
 また、生まれたての子供はまだ人間ではない。かつて日本でも「七歳までは子供は神様」といわれた。飯島吉晴は「厠考」(『竈神と厠神』所収)において、日本の産育儀礼について詳細な分析をしているが、それによれば生まれたての赤子は塵芥や糞便と同等にみなされており、厠への雪隠参りによってこの社会への参入を果たすと記述している。
 アマゾンの奥地に住むヤノマミ族においては、新生児はまだ精霊に属するものである。彼らはその精霊を森に返してしまうこともある(一種の人口制限だ)。子供がまだ人間ではないというのは、近代以前の世界に共通した認識である。
 子供に名前をつけない、子供の葬式・埋葬を異なる方法でおこなう、子供に通過儀礼を課す、子供の身体になんらかの変形(刺青、歯を削る、割礼)を加える、あるいは洗礼する(死を通じて浄化するシミュレーションだろうか)等々、人類は「恐るべきところ」からやってきた存在を、なんとかして「人間」(という語は多くの場合部族の名前そのものである)の仲間にしようと努力してきたのである。
 「産」という文字の由来がすでにそれを示しており、赤子の額にXを描き、呪禁とする。「産」の上の部分は「文」であり、「文」という文字はまた死者を送るさいに、その胸に朱で入れ墨をしたことに由来する。人間の仲間に入れるとき、そしてまたそこから送り出すとき、儀礼は記号を必要とした。
 祟る神、荒ぶる神としての女性という観念は、古代中国でもあった。白川静によれば、最も祟る、恐るべき霊は家長の母やその祖先のそれである。その霊は、嫁とその子に祟るという信仰があったため、中国の祖先供養儀礼はそれをなだめる、祓うことを主におこなっていたという。ここでも女性は死んで神になり、しかも儀礼を通してしかなだめることのできない恐ろしい存在となっていたのである。
 クリステヴァは著書『中国の女たち』でこのような儒教的イデオロギーに抗する女性の立場を擁護しているが、けっきょく彼女が言及している「アブジェ」の概念は、いかに記号論やらマルクス主義で追い払おうと必ず戻ってくることを示しているのではないか。
 われわれは死すべき存在であり、それはわれわれが「女から生まれるもの」である以上避けられないのである(と、ここでクセナキスの《モルシマ・アモルシマ》〔=死すべきもの・不死のもの〕を聴いていただくというのはどうでしょうか?)。

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2009/08/06

音楽非武装地帯 by onnyk[011]虫めづる姫君(その3)

7.花と蝶

 また擬態の話になるが、虫にそっくりな花、花や葉や枝にそっくりな虫がいる。これはどうしてだろうか。あまりにも当たり前すぎる疑問には答えがたいものだ。あるいは多種多様な答えが返ってきて混乱する。擬態という現象は否定できないが、あれほどみごとな模倣が、たんに適者生存のダーウィニズムだけで完成されてきたとは信じがたいと思うのは私だけではないだろう。しかしここで目的論を導入しようとは思わない。そっちに議論をもっていかないようにするべきだ(じゃないとブログではなくなる。いやもう、この長さではブログじゃないけど)。カイヨワとかバタイユを参考にしてほしい。
 切り離して別のカテゴリーに入れようとすれば、なぜその境界を裏切る(「越える」のではなく)ような形象が存在するのかという例はいくつもある。これは人が考案するカテゴリー化の不完全性を示している。

 なぜ、このように中間的な、移行的な、不分明な、曖昧な、不可思議な存在があるのだろうか。
 私がいいたいのは、「植物と昆虫は対として存在している」ということだ。
 森進一の歌った演歌「花が女か男が蝶か」という《花と蝶》はまさしく、この事情を言い当てている。
 男女という性別もじつは曖昧な審級ではないのか。生物学的、社会的な観点からトランスジェンダーの人々が主張を始めている。彼らは花である蝶、蝶である花なのかもしれない。

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2009/08/04

音楽非武装地帯 by onnyk[010]虫めづる姫君(その2)

4.虫の卵がびっしりと……

 毎年、庭のサンショウにはアゲハが産卵してゆくわけだが、この「産みつけていく」という性質も嫌われる要素のひとつだ。
 産みっぱなし、というのはひじょうに非人間的にみえるようだ。だから最近の研究で恐竜も卵が孵るまでそばにいたとか、子供の世話をしていたなどとわかると俄然、共感されるのである。魚でも稚魚を口に入れて世話するとか、蜂が翅で風を送って巣の温度を保つとか、蟻が幼虫の世話をかいがいしくしている様はきわめて好意的に報道される。逆に人間が子供を放置したりしたら、それこそ悪逆非道とされる。まあ、コンラート・ローレンツにいわせれば「人間的と思われるような行動は、ほとんど動物に見いだせる」ということである。
 いずれ、思いもよらないところに「虫の卵」が見つかるし、ときにはそれが孵って幼虫がごそごそしているというのが「虫嫌い」にはたまらないのである。昔は小豆や米や麦などの保管場所にいろんな虫が発生した。特に嫌われるのは、大量にごちゃごちゃと幼虫が発生する様である。
 聞いた話だが、冬にカマキリの卵、というか卵鞘を野原で見つけて持ち帰った。あろうことか机の中に入れて忘れてしまったという。春のある日、引き出しを開けたら、いっせいに孵ったカマキリの幼虫がわああっと出てきたのだそうである。まあこれは虫好きでもびびる逸話だ。
 私の住んでいるあたりでは、ときおりクスサンやマイマイガが大発生する。コンビニの軒下の誘蛾灯の下には文字どおり山になって、死にかけがバサバサ動いていたりする。またそれを食べにくる雀たちもうるさい。雀は翅だけは残してゆくのでそのあたりが翅だらけになる。蛾の連中はなぜか死ぬまぎわになると「もはやこれまで。わが存在の証、いまここに」とばかり、いきなり産卵する。かくして町のあちこちの壁や窓に卵がびっしり産みつけられているのをときおり見かける。やはり気持ちのいいものではない。
 最近はあまり聞かないがアメリカシロヒトリという蛾も大発生する輩だ。これは街路樹などに蜘蛛の巣のような白いネットをかけて、その中に幼虫がうじゃうじゃといる。これもどうも好きな風景ではない。
 虫たちの「うじゃうじゃ、大発生」という気持ち悪さを利用したのが、映画『スターシップ・トゥルーパーズ』だ。人類は虫型宇宙人と交戦中である。アラモ砦とインディアンの包囲攻撃をもじったのだろうが、惑星上の要塞で人間の孤立した部隊が、怒濤のように押し寄せる虫たちの攻撃を受けるシーンがある。この虫のデザインが秀逸(かつ醜悪)で、カマドウマを凶悪にしたようなスタイルである。殺しても殺しても次々に現れ、ついに人間の部隊は全滅する。コオロギに似ているくせに鳴きもしないカマドウマは、なぜか気持ち悪い昆虫である。よく足がとれるのもこいつらの特徴だ。
 昆虫的気持ち悪さの映画として、やはり『エイリアン』にもその要素がたくさんあった。まず、暗いところにびっしりと卵を産みつけてある、そして人の体に幼虫が入り込む、人は中から食い荒らされて、そこから幼虫が飛び出す。これはジガバチなどの狩りをする蜂類にみられる行動を模しているだろう。卵を芋虫に産みつけ、孵化した幼虫は動けないままの宿主を食い荒らすのである。続編では女王エイリアンが出てきて産卵するシーンもある。われわれは一般に胎内に異物が入ること、とくにそれが「他の生命」であることに恐怖を抱く。これについては後述する
 病原体のベクター(媒介者)としての虫はたくさんある。蚊、サシガメなどは直接体にそれを刺しこんでくるのだからたまらない。蚊の媒介する病原体は数あるが、サシガメの媒介する「リーシュマニア」という病気はご存知だろうか。知らない人は「目黒寄生虫館」にでも行ってみるといい。ゴキブリについては、その体が不潔であるとされたが、感染性疾患の媒介についてはあまり大きな役割ではないらしい。ハエはゴキブリと同様の不潔さがあるけれど、種類によっては刺す。ウマバエとかツェツェバエである。後者は「眠り病」を媒介する。
 異なる生命体としての病原性微生物と寄生虫が身体に入り込むことは、自他の区別を失うこと、自己同一性の喪失への恐怖なのかもしれない。これは社会的にも、そうみなされる傾向があり、特にファシズムが発展するさいには、異民族や移民の排撃を主張する純血主義を訴えることが強い契機となるのは歴史が証明している。日本も多民族国家としての道を歩まなければならない岐路に立っている。多様性こそが生存の可能性を高めるのは、理論的にも経験的にも正当なのだから。
 また話題がそれそうだ。いずれ寄生虫は昆虫ではない。たしかに古来からその種の生物もわれわれはムシと呼んできた。清盛入道が厠から出てきて「むしが一斗も出た」と大笑いするくだりが平家物語にある。目黒寄生虫館にはいわゆる寄生虫の類の他に病原体を媒介する昆虫類も展示してある。

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2009/08/02

音楽非武装地帯 by onnyk[009]虫めづる姫君(その1)

1.ギャーッ、ゴキブリ!

 今回のテーマはずばり「女性はなぜ、虫を嫌うのか」だ。
 女性は、どういう状況であれ、大きさに関係なく虫がかさかさっと動いたり、ぷ〜んとよぎると「ぎゃーっ、やだやだ」だの「あ゛〜っ、虫、虫っ」だの妙な声をあげ、逃げ回る。
 そういう場合、男性は、なぜか虫を探して捕獲するか殺そうとする。まあ、いいとこ見せようという下心もあろうが、どっちかというと「子供の頃によく虫をとって遊んだ」という話をしたり、「虫が好きだ」という人も多い。私もこの例にもれない虫好きである。
 女性の中には虫を嫌うだけでなく恐れる人もいる。嫌うのと怖がるのはレベルが違うだけだろう。いろんな人がいて、「虫は嫌だが爬虫類は平気だ」とか「爬虫類も両生類もいやだ」などという人もある。あとでも述べるが、もはや虫の中に爬虫類、両生類が一緒くたにされているのである。「嫌いな存在」として一括り。まさしく蛇蝎のごとくというわけだ。

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2009/02/22

音楽非武装地帯 by onnyk[008]自分の声は聴こえない(その3)

◎耳と機能

 耳は、自分の位置を知るための器官であり、またそれは他者の位置を知るための器官でもある。その目的のためには、耳は目以上に働いている。

 フクロウの頭骨を見たことがあるだろうか。非対称な形をしている。その理由は、左右の耳の位置が異なることによって、聴こえてくる音響の左右差から、その音響の発生源までの距離を知る。これによって彼らは夜間でも獲物をみごとに獲ることができる。視力の発達した鳥は日中の活動を主にするが、猛禽類の中で、夜間に狩りができるのは彼らだけだ。

 海棲哺乳類のなかで、イルカ、シャチ、クジラなどの仲間は、海中の音響を下顎骨で聴いているらしい。海中というか水中では音の速度は早いし、水の流れ、温度などさまざまな情報は体全体からもたらされるだろう。魚類は耳の代わりに側線で環境情報を得ている。側線のない哺乳類にとって水中の音を下顎で聴くというのはまさしく骨伝導の最大活用だ[註1]

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2009/02/15

音楽非武装地帯 by onnyk[007]自分の声は聴こえない(その2)

◎寄り道;サックス談義

 では古典的楽器演奏ならどうなのか。私のいう「古典的楽器」は、いかなる種類であれ発音体や共鳴体が、演奏者の身体に接しているものである。

 典型的な例をあげよう。サクソフォン(サックス)である。サックスはリード楽器であるから、マウスピースを口にくわえる。そのくわえ方(アンブシュア)にもいろいろあるのだが、いずれ歯に直接(噛み方によっては下唇を介して)振動が伝わる。初心者にとって、これは楽器自体から出る音よりも強烈に、直接頭に響いてくる。馴れてしまうと、むしろこの振動によってリード(簧とか弁ともいう)の状態を把握できるようになる。

 だから初心者のうちは自分が出していると感じている音響のほとんどが、骨伝導で聴こえていることになるだろう。いや、かなり演奏に馴れてからでさえ、録音された自分のサックス演奏が聴くに耐えないということがままある。熟練してきた奏者は、演奏している瞬間の自分の音がどう出ているかを補正して聴くことができるのだ。主として骨伝導で聴こえている音から、実際にはどういう音で響いているかを推定できるのである[註1]

 だから、おかしな話だが、不良なPA(パブリックアドレス=ステージ上の複数の音響をバランスよく会場と、演奏者に聴こえさせるシステム)環境、ごちゃごちゃした演奏状況、興奮したフリー・ジャズなどの状況がそろったとき、下手なサックス奏者は高音ばかり多用することになる。なぜなら、そのような状況では「頭に響いてくる音を聴きながら、出ている音を制御する」というのは至難の技だからだ。ある意味、コントロールを放棄した音響が要求されているということだろう。

 話はまたそれるが、PAとは結局、ある局所の音を周囲に配置するという以上に、自分の出している音をフィードバックするシステムなのだ。なぜなら、自分の声を聴けないような状況では、少なくとも意味あるテクストを話す、歌うことができないのである。これを実験するならエコーやディレイを過剰にきかせたマイク、スピーカーの組み合わせで語ってみることだ。結局われわれは自分の声を聴きながら考えている。それは声を出していることも伴わないこともあるのだが、音声として外部に出ている場合、どうしても声の伴わない頭の中のテクストより、聴こえてくる自分の声に依存して発声してしまうのだ。

 そう考えると、PAがナチスで重用されたのもわかる気がする(もっとも彼らの場合、分列行進で歩調を揃えたり、巨大な集会で音声が端まで届く差を解消したかったからなのだろうが)[註2]

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2009/02/08

音楽非武装地帯 by onnyk[006]自分の声は聴こえない(その1)

◎録音された声の不思議

 誰でも経験したことがあるだろうが、録音された自分の声を初めて聴くと、そのあまりの意外さに仰天する。というか嫌悪さえ感じてしまうのではないだろうか。

 たんにその声質への違和感だけでなく、イントネーション、アクセント、あるいは「訛り」、さらには口癖までが否応なく迫ってくる。「これは本当に私の声?」と思いたくなるのも無理はない。「私はもっといい声で、もっと感じよく話しているはずだ」と思う。しかし、その場で再生されれば、否定のしようがないし、時間が経って「これ、あなたですよ」と言われれば、確かにその記憶は蘇ってくる。

 こうした「自分の声への違和感」はいずれ消える。

 いかにしてか? それは繰り返し聴いていくうちにではあるが、ただ聴いているだけでは駄目なようだ。その違和感、あるいは自分の持っている自分の声へのイメージと聴覚印象の差異を解消していくには訓練を要する。

 録音する、される機会はいろいろだろう。自分の声を使って発表をしなくてはならない場合は、録音して聴いてみるのは珍しいことではない。まず幻滅し、そして自分なりの改善点をチェックしながら再挑戦。何度かそれを繰り返しているうちに違和感は消えていく。かつて録音技術が普及していなかったころは、あるいは今でも、人の前でリハーサルすることによって客観性を得ようとするだろう。つまりモニタリングである。モニターが、指導者や共同作業している人はよくあることだが、ときにはまったくの他人を起用することもある。ひいき目や先入観の排除のために。いずれ、それによって自分の声に対する客観的な受容が形成されていく。

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2008/11/19

音楽非武装地帯 by onnyk[005]角館再訪──私的「祭り」考

2008年9月9日、「角館のお祭り」を再訪してきました。3年ぶりになります。

このブログに前回、角館の祭礼のことにかこつけて「音のフェティッシュ」について書いてしまったのですが、あらためて当の祭りを観察してみると、記載の誤りやいい足りない箇所が多々ありまして、追記しておかなければと思った次第です。

角館の祭りについて書くことのいちばんの動機は、あの「鋲付き雪駄」でした。これも「お祭り雪駄」という記述がネット上にみられました。次に、私の住んでいる盛岡、その代表的な祭りへの批判、それによって「住民と祭礼」という問題を見直す、脚下照見ということも動機です。いずれ、経験に対する即時的反応ではなく、私の生きてきた状況のなかで、いったんは沈み込み、時間が経って浮上してきた問題意識ということであり、これは自分の再発見の旅でもあるようです。

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2008/09/14

音楽非武装地帯 by onnyk[004]周尾淳一『山海経』

Sangaikyo周尾淳一『山海経』
Shuo Jun'ichi "SUTRA OF THE DESCRIBED WORLD"
(allelopathy / jam records, 2008)

このブログをご覧になっている皆さん! いつもお読みいただきありがとうございます。
私、onnykは自主レーベル「アレロパシー=allelopathy」を主宰しております。これまで4枚の、自分の関わった即興演奏系のCDを発表しています。このたび、思うところがあって、ちょっと異なる方向性の作品をリリースしてみました。これは岩手県花巻市在住の、孤立したミュージシャンが独力で製作したサウンドの構築物です。彼は多様な音楽を経験し、影響を受けていますが、本質的には彼自身の天性と才能によってここまで達しました。私は選曲と編集を手伝っただけなのですが、その過程で助言をもらった友人から完成品への感想をもらいました。それをCDの紹介文として使わせていただくことにしましたので、ぜひお読みください。そして興味をもたれたら、ご連絡いただきたいと思います。

◎このCDに関する連絡先: onnyk●gamma.ocn.ne.jp(●=アットマーク)

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