onblo talk series 01「現代音楽はおもしろい!」その16──音楽とアイディアについて〈その5〉
木村です。谷口さんにご投稿いただいてから、はや1カ月半ほど経ってしまいました。
いや、別にずっと考えこんでいたわけではなく、ここのところ公私ともに気ぜわしく、余裕がなかっただけなんですが……。
そんなわけで、今回の投稿も、どっちかというとお茶をにごすていどのもので、すみません、さきに謝っておきます。
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木村です。谷口さんにご投稿いただいてから、はや1カ月半ほど経ってしまいました。
いや、別にずっと考えこんでいたわけではなく、ここのところ公私ともに気ぜわしく、余裕がなかっただけなんですが……。
そんなわけで、今回の投稿も、どっちかというとお茶をにごすていどのもので、すみません、さきに謝っておきます。
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谷口です。
現代音楽の受容を考えるうえで、面白い議論になってきました。今回は私の好きなケージを中心に進めてまいります。
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木村です。谷口さんのご投稿を読み、自分の乱暴な議論に恥ずかしくなっております(汗)。だいたい、ベートーヴェンとケージを並べることじたいに無理があるわけですが、まあ、恥かきついでに、行けるところまで行ってみたいと思います。
ただ、あんまり「ベートーヴェン」に拘泥すると、話の主旨がみえなくなってしまいますので、少し話題をしぼらせていただきます。谷口さんの投稿のなかで、(4)として引用してくださっているぼくの記述:
(4)乱暴にいってしまえば、ケージを知らずに現代音楽はできないけれど、ベートーヴェンを知らなくても(あるいは知らないほうが)現代音楽はできる(ほんとうに価値ある音楽がそこから生まれるかどうかは、別問題として)。
ここから、もういちど話を始めさせてください。
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谷口です。
木村さんのご投稿、いろんなアイディアが詰まっておりまして、なかなか手を付けられないでいるのですが、ここではそのご投稿をいくつかに分け、それぞれについて私の意見を書いてみようと思います。
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■音楽は嘘をつくか?
谷口です。
沼野さんのご投稿を読みまして思いついたのは、以前アメリカにいたとき、博士課程向けのゼミにて私が発した質問でした。それは「音楽は嘘をつくのか」というものでした。ゼミではちょうど「音楽のナラティブ」「音楽のペルソナ」のようなことをやっていたのですが、この質問の書いた紙を見たメンデルスゾーン学者ダグラス・シートン博士は大いに感動していました。しかし彼からもクラスからもこの疑問にたいする答えは出ませんでした。誰かがこんなことを言っていたかと思います──「嘘をつく」前の段階で、音楽にはそもそも事実を伝える能力があるのか?
最近は報道エンターテイメントと称して、BGMのついた報道番組も増えましたが(私が知るかぎり、日本でいちばん古いBGM付きのニュース番組は、フジテレビ夕方6時の『スーパータイム』でした)、映像もなく音楽だけで具体的ななにかが伝わるのかといわれると、難しいように思います。歌詞・映像があって、なにかしら具体的な意味づけがなされるように思われるんです。
ただ、沼野さんのおっしゃっていることはたしかに感じます。先日、映画音楽の作曲家として有名なブルース・ブロートンのインタビューを聴いていて、彼が面白いことを言っていたのです。それは「リアルな映画に音楽を付けるときは注意したほうがいい」ということでした。彼にいわせれば、必要でない箇所に音楽をつけると、とたんにリアルさがなくなってしまうのだそうです。ファンタジーはそれに比べて楽だと。
また、別の映画音楽関係の本を読んでおりましたら、「作曲者を含む映画の製作者は映画のラストを知っているが観客は知らないのだから、音楽で物語のヒントを与えすぎないように注意しろ」という助言が書いてありました。とくに推理ものやサスペンスものですと、容疑者たりえる登場人物が何人も登場するのですが、それを音楽によってどう描くか。そしてそれはどのように聴衆を主導していくのか、そういったことに注意しろということなんだと思います。ではこれも「音楽による嘘」なのかどうなのか……。言葉や映像による表現があってこそ、「嘘っぽくなる」ということはあると思うのですが。
私もけっきょく沼野さんの投稿に応答していないようですが、とりあえずこちらも番外編ということで失礼します。[谷口昭弘]
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沼野です。またもやずいぶんと間が空いてしまい、申し訳ありません(いつもこればっかりですが……)。
2週間くらい前、サッカーW杯のときにカメルーン・チームが滞在して有名になった九州の中津江村で、純金の鯉が盗まれるという騒ぎがありました。おそらくこの鯉は、竹下政権下の「ふるさと創生1億円プレゼント」の産物ですよね。あのときに1億円の使い道が思いつかず、純金買ったり、「金のなんとか」を作った自治体はけっこうたくさんあった気がします。
このニュースを聞いて思い出したのが、《モーゼとアロン》でした。いや、正確にいえば逆で、今年に入ってDVDが発売されたストローブ=ユイレの映画『モーゼとアロン』に出てくる「金の牛」を見て、あの竹下政策をひさびさに思い出したところだったんです。やはり、出エジプト記の古代から現代日本にいたるまで、金の魔力というのは人類を翻弄してきたわけですね。してみると中津江の鯉盗難も、偶像崇拝を禁じた神の怒りという可能性もあります(ないか)。
シェーンベルクのオペラ《モーゼとアロン》では、神の表象を頑なに禁じるモーゼには「語り」が、ときには現世的な官能をも是とするアロンには「歌」が与えられています。いまさら私がいうまでもないことですが、これはすごいアイディアというほかない。しかしいっぽうで、オペラ全体は密度の濃い音楽が切れめなく続いているわけで、作品をメタレベルで考えるならば、シェーンベルク自身の仕事(作曲)はモーゼに断罪されかねない、アロン的な役割をになっているともいえます。
ただし、ここで問題になるのが、テキストのみの第3幕です。現在のシェーンベルク研究ではどういう結論になっているのか知らないのですが、ともかく作曲はなんらかの理由で中断されて、短いテキストのみが残された。ストローブ=ユイレの映画でも、ここは横たわるアロンの前でモーゼがただ語って、もう素晴らしくあっけなく、ぷっつりと映像が途切れる。この第3幕に入ると、やはりドキッとするんですね。音楽の作用による遠近感がいっきに消えうせて、ゴロっとした生のリアリティが前面に突出する。とりわけ『モーゼとアロン』の場合には、他の映画と異なり最初からずっと音楽が鳴っているわけですから、この第3幕に入ったときの違和感と衝撃には格別のものがある。
これを観たときに、音楽は映像にフィクショナルな性格を与えるのだということに、あらためて気づかされたんです。一般に、映画音楽の役割は、映像のリアリティを基本的には補完するものだと考えられているように思いますが、じつはむしろ映画音楽はリアルを阻害するものであり、もっといえば「ウソの印」なのだと。テレビのニュースに音楽がないことを思えば、これはあたりまえともいえるんですが、ここから考えることがいろいろありました。
どうも、「なぜ映画音楽はいまだにオーケストラなのか」という問いから離れてしまったようでもありますが、しかしいっぽうで、その答えの鍵のひとつがここにあるような気もします。また、これはむしろ舞踊音楽の歴史という点からみるべきなんでしょうが、もっと新しいトピックスでいえば、なぜフィギュア・スケートの音楽はほとんどオーケストラで、でもエキシビジョンになるとポップスが多くなるのか、という問にも突き当たります。あっ、ここにも「金」メダルが……。
うーん、せっかく谷口さんが映画音楽の発端のところから歴史的な問題提起をしてくださったのに、またしても思いつくまま、変なところに話題がとんでしまいました。あまりの無責任を反省しつつ、次回は軌道修正して、ちゃんともとに戻るべく努力したいと思います。今回は番外編ということでどうかお許しを……。[沼野雄司]
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谷口です。
前回の私の投稿は、問題をいろんな方向に拡散させたようです。議論を収束させようとは考えていなかったぶん、焦点がなくなってしまいましたが、はからずも「現代音楽」という言葉からいろんな議論が可能であることを、自分なりに実感できたようにも思っております。
さて沼野さんのご投稿、映画音楽について私も乗ってみることにしてみました。まず、「なぜオーケストラなのか」ということを私なりに考えてみます。手もとにある映画音楽の本もいくつかのぞいてるんですが、いろいろな要因が考えられそうです。
(1)ヴォードヴィル小屋でサイレント映画が上映されたことがあった。
(2)映画の技術が発展していたころ、人々が慣れ親しんでいたのがクラシック音楽の響き(含オーケストラ)であった。
(3)さまざまな編成がサイレント映画の伴奏をおこなったが、大きな劇場ではオーケストラ(ピット・バンド?)を使っていた。
(4)そして、せっかくトーキーを見るなら、大オーケストラの伴奏がいいという声があがった。
(5)ミュージカル映画が初期トーキー時代に流行した。
(6)スタイナー/コルンゴルド/ニューマンの成功により、シンフォニックなスコアが商業的に成功することが証明されて、それが「当然」のように引き継がれた(1960年代後半から『スター・ウォーズ』までの紆余曲折[うよきょくせつ]を経ながら)。
とりあえず、こんな感じで考えております。沼野さんはどのようにお考えですか?
形式は、私もなかなか難しい問題だと考えています。そもそも音楽だけで「自律した形式」を使わないほうが映画にはよいかもしれないからです(というか、ソナタ形式やロンドが映画にそのまま使われているという例を私は知らないのです。無教養ですいません。ディズニーの『ファンタジア』やオペレッタ映画なんかはかなりそういうのに近いのでしょうか???)。
いっぽう、たしかに音楽を中心に考えますと、「音楽は映像に付随的あるいは相補的」であるとはいえます。しかし映画がひとつの完成した表現方法だと考えますと、音楽が付けられることによって、それがようやく完結する、つまり音楽は映画にとって必要不可欠な存在である、ということもいえるような気がします(実験的な映画だと違うのかもしれませんが)。音楽がまったくないトーキー映画というのは、かなり限られているそうですから。
「映画音楽を19世紀クラシックの次男とみるか、継子とみるか」という問題は、クラシック(映画音楽の書き手が使う「純音楽」の一部なのでしょうか)がメインであって、映画音楽はサブであるといったニュアンスがあるように思います。これをどう判断するかは、政治的な駆け引きになるようで、私自身はあまり興味がないのですが、いずれにせよ、そういったクラシック的なオーケストラの響き、機能和声を使った作曲技法(ただし映像や物語のナラティヴと離れて存在しない)が映画にも引き継がれたことは事実で、「原理主義的な」(?)クラシックの世界では、(機能和声や調性にもとづいた20世紀音楽はあったにせよ)機能和声や協和音から離れて書くことが、「現代音楽」というメインストリームとしてクラシックのなかで特別な待遇を受けた(受けている)ということはあった(ある)、と考えております。そのような文脈のなかで、19世紀音楽の世界では考えられないほどの新しい音楽表現の探求がおこなわれたことは、歴史の記述にも残っているように思います。[谷口昭弘]
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沼野です。
このトーク、いろいろな論点が同時進行しているので、一問一答的に噛み合ったやりとりにはなかなかなりませんが、それでもテーマをめぐって自由に発言する内に、何かいいアイディアが見えてくる気がします。今回は、谷口さんの議論の最後の部分に触発されて、現代音楽と映画音楽の関係について、思うところを書いてみます。
2004年から神奈川県民ホールで行なわれていた連続シンポジウムの記録が、先日『21世紀における芸術の役割』(小林康夫編、未来社)として出版されました。この冒頭に収められた、音楽と建築をめぐる討議に私も参加しているのですが、ここでは、19世紀から20世紀にかけてパリからニューヨークへ、すなわちヨーロッパからアメリカへと美術の中心が移動したのにも関わらず、なぜ音楽は頑なにヨーロッパから動かなかったのかという問題が提出されています。シンポジウムの中では十分に言葉が尽くせなかったのですが、もちろん実際には「移動」はあったわけです。クラシック音楽内の枠組みであれば、中心地は相変わらずヨーロッパだったといってよいでしょうが、広義のポピュラー音楽を視野に入れれば、音楽の中心は明らかにアメリカへと移ってしまった。
ここら辺、「クラシック音楽」「芸術音楽」「美術」「ファインアート」といった単語間のズレやねじれのために、音楽と美術を単純に対応させて考えると、いろいろと混乱が起るところかもしれません。しかしながら、ともかく20世紀の音楽文化の最重要発信地といえば、これはもうアメリカに決まっている。とりわけ20世紀後半のロック、ポップス、黒人音楽を考えれば、その力は圧倒的です。
ところで、こうした20世紀アメリカの様々な音楽文化の中でも、トーキー以降のハリウッド映画音楽は、19世紀クラシック音楽のある側面をそのまま引き継いだものでしょう。つまりクラシックには、ヨーロッパに残った原理主義的な長男の「現代音楽」だけではなく、もうひとり、アメリカに渡った次男「映画音楽」がいた、と。ヨーロッパからアメリカへの音楽中心地の移動は、普通に考えれば一種のジャンル交替といえるわけですが(クラシック→ポピュラー音楽)、一方で、クラシック音楽の創作という枠組みの中で継続性をたどってみるならば、それは20世紀初頭に、ヨーロッパの現代音楽とアメリカの映画音楽という2人の子どもに分裂していったといえないだろうか。
反抗的な長男は、親の世代を全否定しながら様々な運動に参加し、伝統を破壊したり再生したり、むちゃくちゃに暴れましたが、さすがに20世紀末になると老いもあってか(?)、ずいぶんとおとなしくなってしまう。体が動かないと、長男の芸風ではきついわけです。他方、次男は楽天的な性格が幸いして、浮き沈みはあるものの、ちゃっかりと親の「遺産」を運用しながら20世紀を生きてきた。
そもそも、前回もエクスキューズ含みで書いたように「映画音楽」といっても、スタイナーやコルンゴルトみたいなロマン派直系の亡命作曲家音楽もあれば、前衛的な語法も使われるし、ミニマルもある。つまりここにはクラシックの遺産の多くが(後述するように全てではないものの)詰め込まれているといえます。ここで私が最も重要だと思うのは、オーケストラというきわめて不経済なメディアが、このジャンルではまだ生き延びていることです。私にとって、これは興味深い。なんでいまだにオーケストラなのか。
もちろん映画音楽には、ジャズもヒップホップも民族音楽もあるわけだし、映画音楽史的をタテに見るならば、典型的なシンフォニック・スコアは、60年代あたりからこっちは沈滞状況に陥っているといえるのかもしれない。しかしそれでも、いまだに映画音楽ではオーケストラが結構な頻度で使われるし、テレビでもNHKの大河ドラマ的なものは相変わらずオーケストラです(だから、一般には「オーケストラのための音楽」を書く日本の作曲家、あるいは「現代の作曲家」といえば、久石譲や坂本龍一、あるいは渡辺俊幸といった名前を思い浮かべる人が多いはず)。
ただ、いくら映画音楽が19世紀クラシック音楽の次男だといっても、やはり大きな違いがあるといえばある。それが「形式」の問題です。クラシック音楽の歴史は、音だけで物語を作るにはどうしたらいいか、という形式との闘いでしょう。1時間以上も続くマーラーの交響曲を飽きずに聴ける人が結構たくさんいる、というのは考えてみれば大変なことで、長い歴史の中でのアイディアの積み重ね、および聴き手に対する教育の歴史があって、初めて1時間強という時間が何がしかの「意味」のあるものになる。
一方で、映画音楽は映像とセットになっているために、自律した形式を持つことが難しい。もちろん何事にも例外はあるけれども、しかし一般的な映画製作の手順からいえば、音楽は映像に付随的あるいは相補的なものでしょう。ゆえに谷口さんやゴールドスミスが言うように、音楽だけ聴いても不都合な部分が多い。音響的な効果という点ではクラシック音楽(含「現代音楽」)の手法の全てが取り入れられてはいるものの、形式の探求ということでいえば、クラシック音楽とは大きな切断がある。
きっと、映画音楽を19世紀クラシックの次男とみるか、継子とみるかは、この形式の問題に関わってくるのでしょう(なにか現在の女帝問題みたいですが)。また、「クラシック」と「映画音楽」の間に、オペラやミュージカルという補助線を引くと、さらに違った側面が見えてくる気もします。なんだか取り留めのない話になってしまい申し訳ないのですが、とりあえずここら辺で。[沼野雄司]
※ピーター・バート氏の『武満徹の音楽』、いい本でした。『音楽の友』に書評を書く予定です。
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谷口です。前回の沼野さんのご投稿では、「listner-friendly」な音楽は、次の3つに分類されるということでした。
〈1〉後期ロマン派的な作品
〈2〉映画音楽的な作品
〈3〉ミニマル音楽の類
おそらくこの3つに共通している音楽的要素は、やはり協和音が比較的多く、因習的な要素を多く持っているということなのでしょう。因習的というのは、19世紀までに培われてきた西洋の機能和声といったもの、そしてそれから派生した、協和音を主に不協和音を副次的なものとして捉える音楽の書き方なのでしょう。
たとえば〈1〉は、まさにそういった機能和声が円熟した(熟れすぎた?)時期であります。〈2〉も〈1〉の語法を踏襲しながら、これを映像を時にサポートするか、あるいはそれに新たな意味を与えフィルムと一体にして定着する(サイレント期を除く)といった、音楽外的な機能を加えた音楽で、これが極めて20世紀的であったということでしょう(ただし映画音楽の場合は、20世紀に広く使われた作曲技法──ポピュラー音楽を含む──も取り入れられるし、電子楽器の積極的使用といったことはあります。映画音楽もメディアの成立史を考えれば確実に20世紀以降の音楽ですから)。〈3〉は不協和音を多く含んだ「現代音楽」に対し、協和音がメインストリーム足り得ることを証明したという点では画期的であり、美術ではすでに使われた20世紀ならではの単純化と反復を使っていたため、その真新しさと同時代性がアピールしたということになるのでしょう。
そうすると、やっぱり新しい音楽にも協和音が欲しいという要望が、いわゆるクラシック・ファンには多いということなんでしょうか。
私見ですが、こういった「Listner-friendly」な音楽(それが「現代音楽」であるかどうかは別として)を支持する層は確実にいると思います(多いか少ないかは別として。それは「現代音楽」の世界でもそうかもしれません)。そして、そういう支持層はおそらく「現代音楽」だからこういった音楽を聴いているのではないように思えます。時代的には確実に現代なんだけど、戦後の、不協和音の多い「現代音楽」でないから聴いているように思えるんですね。今後こういった流れが恒常的に続くのかどうかは分かりません。
もう一方で私が問題と考えるのは、「現代音楽」にも「本家」や「競合する分野」がすでに登場しているのではないかということです。ウェーベルンやケージなどは、おそらく「現代音楽」の「古典」にさえなっております。また「『現代音楽』という枠組みで消費」する・しないというのは、実は、「現代音楽」には、それ専門の聴衆が存在するといったことを示唆しているように思われます。もちろん、それが悪いという訳ではありませんが、「現代音楽」というのが、何かしら「管弦楽曲」や「歌曲」の中にスマートに収まり切らないということもありそうです。
作曲技法としては機能和声もセリエルも、そしておそらく偶然性なども、すでにそれらをどう表現として使うかという段階に入っていると思いますが、19世紀的なものよりも20世紀的なものにより可能性があるのであれば、たとえばそれは、20世紀に開発された作曲技法を使った作曲には、19世紀までに出来上がっていた作曲技法をつかった作曲よりも、より「新しい」表現が開拓できる余地がある、ということなのでしょうか。
もしそうでないのであれば、新しい表現の可能性は、19世紀的なもの・20世紀的なものやそれ以外のもの、たとえば非西洋のもの、ラモー以前の和声や対位法の世界など、様々なものに必然と向かっていくことになり、これは今に始まったことではなく、今後とも続いていくのかもしれません。しかしこれも、古い技法からの「逃避行動」(調性はやめる、無調も充分開拓された、偶然性も飽きた、ミニマルにも限界、クラシックはやめてポピュラー的なものをetc. etc.)になってしまっているのなら、大変なのではないかという気もします。
以下蛇足ですが、映画音楽について。これは大変難しい問題をはらんでいると思います。といいますのも、駅の売店で売っている映画音楽というのは、そのほとんどが映画のテーマ音楽を集めたものだからです。つまり映画本編に背景として流れている音楽、たとえばサントラなどは、こういったテーマ音楽集に比較すると、ぐっとファン層が限られてくるのではないかと考えられてしまうのです。もちろん自分が好きな映画のサントラを買うということはあるのでしょうが、サントラのみを集めて鑑賞する人というのは、やはりそれほど多くないように思われます。
その理由として私が考えているのは、こういった背景音楽は映像と一体となって融合しているので、音だけを切り離してしまうと「素材」になってしまうのではないかということです。いや、だから「音楽的に劣っている」というのではありません。特定のモティーフが突然繰り返されるといったことが起こる場合、それは画面上に起こっている状況に対応しているということがありまして、オペラほどに長く音楽が流れない場合、たとえば1分・2分の音楽の中に突然前に流れた旋律が再登場するのはなぜなのかを考える場合、画面がないと、ひどく理解しづらいということが私の経験にあったからです。つまり映画音楽を勉強するにはサントラよりも映画そのものを観て聴いた方がいいのではないか、ということです。ジェリー・ゴールドスミスも、そんなことを言っていたような気がします。
ということで、協和音を核に作曲する語法といっても、映画音楽の場合は、特殊な問題があるように思えてならないのです。ただ、調性で書く音楽が映画に残ったということであれば、20世紀的な表現をもった調性音楽ということで「映画音楽は西洋ロマン派音楽の継承者である」という意見が、作曲技法上の観点から見てあながち間違いではないと思います。
こういう議論では作曲技法、作風、表現などを分けて考えるということが必要なのかもしれません。[谷口昭弘]
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