2009/02/03

谷口昭弘の「アメクラ・セミクラ」003──標題音楽は嫌われもの?

 音楽のジャンルに上下をつけるなんて気に入らないと私はふだんから思っているのですが、いつも蔑まれていて、なおかつ、あまりそのことが問題にされない音楽ジャンルがあるように思います。それが「描写音楽」です。どうやら描写音楽とは標題音楽の一種らしいのですが、そのなかでも格別に忌避されるべき存在のようになっているような気がします。

 たとえば、あるコンサートで演奏される曲目に「標題音楽」があって、ふとプログラム冊子で、その曲の解説が読むと、「……しかしこのタイトル(あるいは標題)は、なにかを描写するものではなく……」というひとことが添えられていることが多いですよね。いやもちろん、そのひとことは作曲家の主張でもあって、尊重すべきことだとは思うものの、この「描写するものではない」という言いまわしには、「どうか描写音楽ではないので、そこだけは混同しないでいただきたい」という願いがこめられているように思われてしかたがないのです。それくらい「描写音楽」の存在は蔑まれているのです。

 もっと露骨に、描写音楽は「低俗」だと明言されている例もあります。たとえば、日本で学校の教材として作られている音楽の鑑賞レコードの解説に、こんな一節をみつけました。プロコフィエフの組曲《冬のかがり火》から〈出発〉を解説した部分です。

描写音楽の中には、音楽性の低いものもあり、描写音楽=低次元の音楽ととられがちであるが、プロコフィエフのような巨匠の手になる作品は、決してそうではない。

 プロコフィエフの〈出発〉は、小学校の1年生向けに、蒸気機関車を描写した音楽として選ばれています。子どもたちにとって、プロコフィエフがロシアの作曲家として巨匠であること、あるいは聴いている音楽が描写音楽であることが、どれほどだいじなことなのか疑問ではありますが、このように「低次元の音楽」ととられがちな描写音楽が、学校音楽の初期段階で選ばれることも、多いように思われます。

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2008/01/05

谷口昭弘の「アメクラ・セミクラ」002──模索するアメリカ音楽の現在:調性音楽復権と多文化主義

 2003年にアメリカから帰国して、もう5年近くたった。ディズニーの映画音楽にかんする単行本に従事しているあいだ、なかなかアメリカ音楽の近況を細やかに追う時間がとれなかったのだが、いま「非実験系」のアメリカ音楽について書きながら、少しずつ、アメリカの、オーケストラ作品を中心とした新作への関心をとり戻しつつある。

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2006/10/16

新連載! 谷口昭弘の「アメクラ・セミクラ」001──運動会音楽になった《クシコス・ポスト》

Csikospost_senow  『レコード芸術』という雑誌の10月号で「セミクラシック」について短い記事を書いたため、最近そっち方向の資料をちょっと集めていたんのですが、先日面白い楽譜を入手しました。明治43年(1910)、セノオ音楽出版社から出された《クシコスの郵便》という楽譜(写真参照)。現在では《クシコス・ポスト》あるいは《クシコスの郵便馬車》として、とくに運動会の徒競走の音楽として知られているヘルマン・ネッケの作品です。

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2006/10/15

谷口昭弘さんの新連載、始まります!

 ここのところ少しご無沙汰していますが、当blogの討論シリーズ「onblo talk series」でご活躍の谷口昭弘さん(音と音楽を考えるページ)が、当方の熱望にこたえて、新連載を投稿してくださることとなりました。

 題して、「谷口昭弘のアメクラ・セミクラ」。本来のご専門であるアメリカのクラシック音楽、そして最近わたしが引きずりこんだ感もなきにしもあらず(?)の「セミ・クラシック」──これらのジャンルを中心に、自由に投稿していただこうと思っています。

 セミ・クラシックって、クラシックのメインストリームからはなんとなく見下されている感もありますが、なかなかに奥が深い世界だと思います。あたれる文献、聴ける音源はしらみつぶしに渉猟してことにあたる谷口さんの研究が、逆にメインストリームの音楽の意味を照らすことにもなるんではないか、ととても期待しております。

 そういえば、こちらもわたしの安易な発案から始まった(?)谷口さんの「ディズニー・ミュージック研究」も、そろそろ日の目を見そうだとのことで……。そのおりには、当blogをあげて、大々的に宣伝させていただきますので、乞ご期待![genki]

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2006/04/12

onblo talk series 01「現代音楽はおもしろい!」その15──音楽とアイディアについて〈その4〉

 谷口です。

 現代音楽の受容を考えるうえで、面白い議論になってきました。今回は私の好きなケージを中心に進めてまいります。

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2006/03/24

onblo talk series 01「現代音楽はおもしろい!」その13──音楽とアイディアについて〈その2〉

谷口です。

木村さんのご投稿、いろんなアイディアが詰まっておりまして、なかなか手を付けられないでいるのですが、ここではそのご投稿をいくつかに分け、それぞれについて私の意見を書いてみようと思います。

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2006/03/07

onblo talk series 01「現代音楽はおもしろい!」その11──現代音楽と映画音楽〈5〉

■音楽は嘘をつくか?

谷口です。

沼野さんのご投稿を読みまして思いついたのは、以前アメリカにいたとき、博士課程向けのゼミにて私が発した質問でした。それは「音楽は嘘をつくのか」というものでした。ゼミではちょうど「音楽のナラティブ」「音楽のペルソナ」のようなことをやっていたのですが、この質問の書いた紙を見たメンデルスゾーン学者ダグラス・シートン博士は大いに感動していました。しかし彼からもクラスからもこの疑問にたいする答えは出ませんでした。誰かがこんなことを言っていたかと思います──「嘘をつく」前の段階で、音楽にはそもそも事実を伝える能力があるのか?

最近は報道エンターテイメントと称して、BGMのついた報道番組も増えましたが(私が知るかぎり、日本でいちばん古いBGM付きのニュース番組は、フジテレビ夕方6時の『スーパータイム』でした)、映像もなく音楽だけで具体的ななにかが伝わるのかといわれると、難しいように思います。歌詞・映像があって、なにかしら具体的な意味づけがなされるように思われるんです。

ただ、沼野さんのおっしゃっていることはたしかに感じます。先日、映画音楽の作曲家として有名なブルース・ブロートンのインタビューを聴いていて、彼が面白いことを言っていたのです。それは「リアルな映画に音楽を付けるときは注意したほうがいい」ということでした。彼にいわせれば、必要でない箇所に音楽をつけると、とたんにリアルさがなくなってしまうのだそうです。ファンタジーはそれに比べて楽だと。

また、別の映画音楽関係の本を読んでおりましたら、「作曲者を含む映画の製作者は映画のラストを知っているが観客は知らないのだから、音楽で物語のヒントを与えすぎないように注意しろ」という助言が書いてありました。とくに推理ものやサスペンスものですと、容疑者たりえる登場人物が何人も登場するのですが、それを音楽によってどう描くか。そしてそれはどのように聴衆を主導していくのか、そういったことに注意しろということなんだと思います。ではこれも「音楽による嘘」なのかどうなのか……。言葉や映像による表現があってこそ、「嘘っぽくなる」ということはあると思うのですが。

私もけっきょく沼野さんの投稿に応答していないようですが、とりあえずこちらも番外編ということで失礼します。[谷口昭弘]

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2006/02/13

onblo talk series 01「現代音楽はおもしろい!」その9──現代音楽と映画音楽〈3〉

谷口です。

前回の私の投稿は、問題をいろんな方向に拡散させたようです。議論を収束させようとは考えていなかったぶん、焦点がなくなってしまいましたが、はからずも「現代音楽」という言葉からいろんな議論が可能であることを、自分なりに実感できたようにも思っております。

さて沼野さんのご投稿、映画音楽について私も乗ってみることにしてみました。まず、「なぜオーケストラなのか」ということを私なりに考えてみます。手もとにある映画音楽の本もいくつかのぞいてるんですが、いろいろな要因が考えられそうです。

(1)ヴォードヴィル小屋でサイレント映画が上映されたことがあった。

(2)映画の技術が発展していたころ、人々が慣れ親しんでいたのがクラシック音楽の響き(含オーケストラ)であった。

(3)さまざまな編成がサイレント映画の伴奏をおこなったが、大きな劇場ではオーケストラ(ピット・バンド?)を使っていた。

(4)そして、せっかくトーキーを見るなら、大オーケストラの伴奏がいいという声があがった。

(5)ミュージカル映画が初期トーキー時代に流行した。

(6)スタイナー/コルンゴルド/ニューマンの成功により、シンフォニックなスコアが商業的に成功することが証明されて、それが「当然」のように引き継がれた(1960年代後半から『スター・ウォーズ』までの紆余曲折[うよきょくせつ]を経ながら)。

とりあえず、こんな感じで考えております。沼野さんはどのようにお考えですか?

形式は、私もなかなか難しい問題だと考えています。そもそも音楽だけで「自律した形式」を使わないほうが映画にはよいかもしれないからです(というか、ソナタ形式やロンドが映画にそのまま使われているという例を私は知らないのです。無教養ですいません。ディズニーの『ファンタジア』やオペレッタ映画なんかはかなりそういうのに近いのでしょうか???)。

いっぽう、たしかに音楽を中心に考えますと、「音楽は映像に付随的あるいは相補的」であるとはいえます。しかし映画がひとつの完成した表現方法だと考えますと、音楽が付けられることによって、それがようやく完結する、つまり音楽は映画にとって必要不可欠な存在である、ということもいえるような気がします(実験的な映画だと違うのかもしれませんが)。音楽がまったくないトーキー映画というのは、かなり限られているそうですから。

「映画音楽を19世紀クラシックの次男とみるか、継子とみるか」という問題は、クラシック(映画音楽の書き手が使う「純音楽」の一部なのでしょうか)がメインであって、映画音楽はサブであるといったニュアンスがあるように思います。これをどう判断するかは、政治的な駆け引きになるようで、私自身はあまり興味がないのですが、いずれにせよ、そういったクラシック的なオーケストラの響き、機能和声を使った作曲技法(ただし映像や物語のナラティヴと離れて存在しない)が映画にも引き継がれたことは事実で、「原理主義的な」(?)クラシックの世界では、(機能和声や調性にもとづいた20世紀音楽はあったにせよ)機能和声や協和音から離れて書くことが、「現代音楽」というメインストリームとしてクラシックのなかで特別な待遇を受けた(受けている)ということはあった(ある)、と考えております。そのような文脈のなかで、19世紀音楽の世界では考えられないほどの新しい音楽表現の探求がおこなわれたことは、歴史の記述にも残っているように思います。[谷口昭弘]

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2006/02/01

onblo talk series 01「現代音楽はおもしろい!」その7──現代音楽と映画音楽〈1〉

谷口です。前回の沼野さんのご投稿では、「listner-friendly」な音楽は、次の3つに分類されるということでした。

 〈1〉後期ロマン派的な作品

 〈2〉映画音楽的な作品

 〈3〉ミニマル音楽の類

おそらくこの3つに共通している音楽的要素は、やはり協和音が比較的多く、因習的な要素を多く持っているということなのでしょう。因習的というのは、19世紀までに培われてきた西洋の機能和声といったもの、そしてそれから派生した、協和音を主に不協和音を副次的なものとして捉える音楽の書き方なのでしょう。

たとえば〈1〉は、まさにそういった機能和声が円熟した(熟れすぎた?)時期であります。〈2〉も〈1〉の語法を踏襲しながら、これを映像を時にサポートするか、あるいはそれに新たな意味を与えフィルムと一体にして定着する(サイレント期を除く)といった、音楽外的な機能を加えた音楽で、これが極めて20世紀的であったということでしょう(ただし映画音楽の場合は、20世紀に広く使われた作曲技法──ポピュラー音楽を含む──も取り入れられるし、電子楽器の積極的使用といったことはあります。映画音楽もメディアの成立史を考えれば確実に20世紀以降の音楽ですから)。〈3〉は不協和音を多く含んだ「現代音楽」に対し、協和音がメインストリーム足り得ることを証明したという点では画期的であり、美術ではすでに使われた20世紀ならではの単純化と反復を使っていたため、その真新しさと同時代性がアピールしたということになるのでしょう。

そうすると、やっぱり新しい音楽にも協和音が欲しいという要望が、いわゆるクラシック・ファンには多いということなんでしょうか。

私見ですが、こういった「Listner-friendly」な音楽(それが「現代音楽」であるかどうかは別として)を支持する層は確実にいると思います(多いか少ないかは別として。それは「現代音楽」の世界でもそうかもしれません)。そして、そういう支持層はおそらく「現代音楽」だからこういった音楽を聴いているのではないように思えます。時代的には確実に現代なんだけど、戦後の、不協和音の多い「現代音楽」でないから聴いているように思えるんですね。今後こういった流れが恒常的に続くのかどうかは分かりません。

もう一方で私が問題と考えるのは、「現代音楽」にも「本家」や「競合する分野」がすでに登場しているのではないかということです。ウェーベルンやケージなどは、おそらく「現代音楽」の「古典」にさえなっております。また「『現代音楽』という枠組みで消費」する・しないというのは、実は、「現代音楽」には、それ専門の聴衆が存在するといったことを示唆しているように思われます。もちろん、それが悪いという訳ではありませんが、「現代音楽」というのが、何かしら「管弦楽曲」や「歌曲」の中にスマートに収まり切らないということもありそうです。

作曲技法としては機能和声もセリエルも、そしておそらく偶然性なども、すでにそれらをどう表現として使うかという段階に入っていると思いますが、19世紀的なものよりも20世紀的なものにより可能性があるのであれば、たとえばそれは、20世紀に開発された作曲技法を使った作曲には、19世紀までに出来上がっていた作曲技法をつかった作曲よりも、より「新しい」表現が開拓できる余地がある、ということなのでしょうか。

もしそうでないのであれば、新しい表現の可能性は、19世紀的なもの・20世紀的なものやそれ以外のもの、たとえば非西洋のもの、ラモー以前の和声や対位法の世界など、様々なものに必然と向かっていくことになり、これは今に始まったことではなく、今後とも続いていくのかもしれません。しかしこれも、古い技法からの「逃避行動」(調性はやめる、無調も充分開拓された、偶然性も飽きた、ミニマルにも限界、クラシックはやめてポピュラー的なものをetc. etc.)になってしまっているのなら、大変なのではないかという気もします。

以下蛇足ですが、映画音楽について。これは大変難しい問題をはらんでいると思います。といいますのも、駅の売店で売っている映画音楽というのは、そのほとんどが映画のテーマ音楽を集めたものだからです。つまり映画本編に背景として流れている音楽、たとえばサントラなどは、こういったテーマ音楽集に比較すると、ぐっとファン層が限られてくるのではないかと考えられてしまうのです。もちろん自分が好きな映画のサントラを買うということはあるのでしょうが、サントラのみを集めて鑑賞する人というのは、やはりそれほど多くないように思われます。

その理由として私が考えているのは、こういった背景音楽は映像と一体となって融合しているので、音だけを切り離してしまうと「素材」になってしまうのではないかということです。いや、だから「音楽的に劣っている」というのではありません。特定のモティーフが突然繰り返されるといったことが起こる場合、それは画面上に起こっている状況に対応しているということがありまして、オペラほどに長く音楽が流れない場合、たとえば1分・2分の音楽の中に突然前に流れた旋律が再登場するのはなぜなのかを考える場合、画面がないと、ひどく理解しづらいということが私の経験にあったからです。つまり映画音楽を勉強するにはサントラよりも映画そのものを観て聴いた方がいいのではないか、ということです。ジェリー・ゴールドスミスも、そんなことを言っていたような気がします。

ということで、協和音を核に作曲する語法といっても、映画音楽の場合は、特殊な問題があるように思えてならないのです。ただ、調性で書く音楽が映画に残ったということであれば、20世紀的な表現をもった調性音楽ということで「映画音楽は西洋ロマン派音楽の継承者である」という意見が、作曲技法上の観点から見てあながち間違いではないと思います。

こういう議論では作曲技法、作風、表現などを分けて考えるということが必要なのかもしれません。[谷口昭弘]

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2006/01/28

onblo talk series 01「現代音楽はおもしろい!」その5──Listener-Friendly 20th-Century Music?〈1〉

■現代音楽は聴きやすい(?)

 私がまだフロリダに住んでいたときのことです。地元のBordersという書店に行きました。ここは書籍の他に音楽CDや映画のDVDなども置いてある複合店といえるのですが、ふとCDのセクションに面白い言葉をみつけました。

 お勧めCDの紹介を説明したプレートのようなものだったのですが、そこに「Listener-Friendly Twentieth-Century Music」とあったのです。これは「聴き手にやさしい20世紀音楽」といった訳になりますでしょうか。

 私がこの店を訪れたのはすでに21世紀に入ってからだったのですが(おそらく2002年か2003年)、おそらくその紹介された作品も、それほど作曲されてから年月のたっていない、いわゆる「現代音楽」に分類される作品だったと思います。

 この「聴き手にやさしい20世紀音楽」という言葉は、2つのことを考えさせてくれます。そのひとつは「20世紀音楽」と分類される音楽は、一般的に「聴き手にやさしくない」と考えられているということです。ですから「聴き手にやさしい」という言葉は、他の20世紀音楽とは違うぞ、という商品のアピールになるのでしょう。

 もうひとつは、21世紀に入っていても、この紹介されたCDが「20世紀音楽」という文脈でとられているということです。もちろん、私がアメリカにいたのは2003年まででしたから、21世紀そのものの歴史がまだ浅く、「20世紀音楽」という書き方に依然大きな意味があったということも充分考えられます。しかし日本で50年以上前に作曲された、不協和音の多い音楽が以前「現代音楽」とよばれることと、こ

の「20世紀音楽」という呼び名には、なにかしら類似した感覚を感ずるのも事実です。

 さて、21世紀も6年めに入りました。21世紀の音楽においても、新しい作品のいくつかには「聴き手にやさしい」という前置きが必要とされていくのでしょうか。

 みなさんはどのようにお考えですか?[谷口昭弘]

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