谷口です。前回の沼野さんのご投稿では、「listner-friendly」な音楽は、次の3つに分類されるということでした。
〈1〉後期ロマン派的な作品
〈2〉映画音楽的な作品
〈3〉ミニマル音楽の類
おそらくこの3つに共通している音楽的要素は、やはり協和音が比較的多く、因習的な要素を多く持っているということなのでしょう。因習的というのは、19世紀までに培われてきた西洋の機能和声といったもの、そしてそれから派生した、協和音を主に不協和音を副次的なものとして捉える音楽の書き方なのでしょう。
たとえば〈1〉は、まさにそういった機能和声が円熟した(熟れすぎた?)時期であります。〈2〉も〈1〉の語法を踏襲しながら、これを映像を時にサポートするか、あるいはそれに新たな意味を与えフィルムと一体にして定着する(サイレント期を除く)といった、音楽外的な機能を加えた音楽で、これが極めて20世紀的であったということでしょう(ただし映画音楽の場合は、20世紀に広く使われた作曲技法──ポピュラー音楽を含む──も取り入れられるし、電子楽器の積極的使用といったことはあります。映画音楽もメディアの成立史を考えれば確実に20世紀以降の音楽ですから)。〈3〉は不協和音を多く含んだ「現代音楽」に対し、協和音がメインストリーム足り得ることを証明したという点では画期的であり、美術ではすでに使われた20世紀ならではの単純化と反復を使っていたため、その真新しさと同時代性がアピールしたということになるのでしょう。
そうすると、やっぱり新しい音楽にも協和音が欲しいという要望が、いわゆるクラシック・ファンには多いということなんでしょうか。
私見ですが、こういった「Listner-friendly」な音楽(それが「現代音楽」であるかどうかは別として)を支持する層は確実にいると思います(多いか少ないかは別として。それは「現代音楽」の世界でもそうかもしれません)。そして、そういう支持層はおそらく「現代音楽」だからこういった音楽を聴いているのではないように思えます。時代的には確実に現代なんだけど、戦後の、不協和音の多い「現代音楽」でないから聴いているように思えるんですね。今後こういった流れが恒常的に続くのかどうかは分かりません。
もう一方で私が問題と考えるのは、「現代音楽」にも「本家」や「競合する分野」がすでに登場しているのではないかということです。ウェーベルンやケージなどは、おそらく「現代音楽」の「古典」にさえなっております。また「『現代音楽』という枠組みで消費」する・しないというのは、実は、「現代音楽」には、それ専門の聴衆が存在するといったことを示唆しているように思われます。もちろん、それが悪いという訳ではありませんが、「現代音楽」というのが、何かしら「管弦楽曲」や「歌曲」の中にスマートに収まり切らないということもありそうです。
作曲技法としては機能和声もセリエルも、そしておそらく偶然性なども、すでにそれらをどう表現として使うかという段階に入っていると思いますが、19世紀的なものよりも20世紀的なものにより可能性があるのであれば、たとえばそれは、20世紀に開発された作曲技法を使った作曲には、19世紀までに出来上がっていた作曲技法をつかった作曲よりも、より「新しい」表現が開拓できる余地がある、ということなのでしょうか。
もしそうでないのであれば、新しい表現の可能性は、19世紀的なもの・20世紀的なものやそれ以外のもの、たとえば非西洋のもの、ラモー以前の和声や対位法の世界など、様々なものに必然と向かっていくことになり、これは今に始まったことではなく、今後とも続いていくのかもしれません。しかしこれも、古い技法からの「逃避行動」(調性はやめる、無調も充分開拓された、偶然性も飽きた、ミニマルにも限界、クラシックはやめてポピュラー的なものをetc. etc.)になってしまっているのなら、大変なのではないかという気もします。
以下蛇足ですが、映画音楽について。これは大変難しい問題をはらんでいると思います。といいますのも、駅の売店で売っている映画音楽というのは、そのほとんどが映画のテーマ音楽を集めたものだからです。つまり映画本編に背景として流れている音楽、たとえばサントラなどは、こういったテーマ音楽集に比較すると、ぐっとファン層が限られてくるのではないかと考えられてしまうのです。もちろん自分が好きな映画のサントラを買うということはあるのでしょうが、サントラのみを集めて鑑賞する人というのは、やはりそれほど多くないように思われます。
その理由として私が考えているのは、こういった背景音楽は映像と一体となって融合しているので、音だけを切り離してしまうと「素材」になってしまうのではないかということです。いや、だから「音楽的に劣っている」というのではありません。特定のモティーフが突然繰り返されるといったことが起こる場合、それは画面上に起こっている状況に対応しているということがありまして、オペラほどに長く音楽が流れない場合、たとえば1分・2分の音楽の中に突然前に流れた旋律が再登場するのはなぜなのかを考える場合、画面がないと、ひどく理解しづらいということが私の経験にあったからです。つまり映画音楽を勉強するにはサントラよりも映画そのものを観て聴いた方がいいのではないか、ということです。ジェリー・ゴールドスミスも、そんなことを言っていたような気がします。
ということで、協和音を核に作曲する語法といっても、映画音楽の場合は、特殊な問題があるように思えてならないのです。ただ、調性で書く音楽が映画に残ったということであれば、20世紀的な表現をもった調性音楽ということで「映画音楽は西洋ロマン派音楽の継承者である」という意見が、作曲技法上の観点から見てあながち間違いではないと思います。
こういう議論では作曲技法、作風、表現などを分けて考えるということが必要なのかもしれません。[谷口昭弘]